偶発セオリー


 朝起きて、部屋のドアを開けた先のリビングが紫煙でくゆっていることにも、慣れた。

「…おはよう、龍平さん」
「おはよ」
「朝ごはんは」
「トースト食べた。…もう行くから」
「ん。…ごめんね」

 龍平さんがヘビースモーカーだってことがわたしにわかってきたように、龍平さんにもわたしが朝に弱いってことがわかってきたと思う。
 共同生活を始めて早一週間。出会ってから早一週間。

 わたしも、この年上の奇妙な同居人に、慣れた。

「今日、早く帰るから。…6時ぐらい」
「はいはい。今日はバイトないから、家にいる」
「晩飯、麺がいい」
「わかった」
「じゃ、行ってきます」
「…行ってらっしゃい」

 龍平さんの広い背中を最後に玄関のドアが閉まった。
 廊下を通ってリビングに戻ったわたしはまずキッチンの換気扇をつけ、窓を開けた。
 龍平さんの煙草の匂いは結構好きだけど、部屋に匂いがつくのはよくないから。

 こんな、こんなことからわたしの一日が始まるなんて、まだ信じられない。
 行ってらっしゃい、とか。最後に言ったのはいつだろう。
 今のわたしの家は、行ってきますと行ってらっしゃいと、ただいまとお帰りがある。

 それだけでも、雨の日に拾った見知らぬ男の人を住まわせる対価に値する。


 *


 龍平さんとは、この前の雨の日にうちの近くのコンビニ前で出会った。
 コンビニ前の縁石に座り、俯いて、虚ろな眼で雨に打たれていたのが龍平さんだった。
 どうしてあの時、わたしが龍平さんに声をかけてしまったのかはわからない。見るからに不審、だったのに。
 でも、目が合った瞬間に思ったんだ。「見捨てたら後悔する」って。
 …まぁ、タオルを貸すため家にあげたら、そのまま居着いたのは予想外だったけど。
 でもいいんだ。帰ってくる誰かを待つのも、帰ったら誰かが待っていてくれるのも、一人暮らしが長いわたしにはとても幸せなことだから。

「それアンタ、絶対利用されてるよね」
「まぁ…そうかもね。でもいいよ、別に、それでも。ほら、用心棒だと思えば」
「…用心棒かと思ったら、実は狼かもよ?」

 いたずらっぽい眼を輝かせて利乃が言った。利乃はすぐそういう方向に話を持っていきたがる。自分が彼氏と上手くいってるからって、わたしにも早く彼氏をつくるようにと言ってうるさい。

「ないよ。龍平さん、院生だし。年が離れてるから、わたしのこと妹みたいにしか見えないんじゃない?」
「そうかなぁ」

 つまらなさそうに言うけど、利乃がわたしの心配をしてくれてることもわかる。知り合ってすぐの人といきなり同居で、しかも向こうは男の人だもんね。友達がそんなこと始めたら、わたしだって全力で心配するわ。

「…あ、宗祐先輩」

 わたしと利乃が座っていた学食のテーブルから、利乃のサークルの先輩とその友人が見えた。わたしも顔は知ってる。その隣の人も。

(龍平さんがこっちのキャンパスに来てるの、珍しいな)

 快活に話す宗祐先輩に引きずられるようにして、宗祐先輩の隣を龍平さんが面倒くさそうな顔で歩いていた。
 遠目に見ても目を惹く長身の二人に、辺りに座っていた女子学生は僅かに色めきたつ。…まぁね、もしもわたしが無邪気に龍平さんを見れる立場だったら、少しは格好いい、と思ってしまうかもしれない。少しは。

「宗祐先輩格好いいなぁ」
「そんなこと言って…彼氏さん妬くよ?」
「格好いい人見て格好いいって言って何が悪いの!別に好きとかじゃないもん!」
「…はいはい」

 憧れの先輩ってことだよね。宗祐先輩、テニスも上手いらしいしね。視界から消えるまで二人が歩いている様子を利乃と眺めていると、眠そうに歩いていた龍平さんがぴくんと覚醒した。ぱっと振り返った龍平さんと、目が合った。

「あ!宗祐先輩こっち来る!」

 利乃は嬉しそうにしてるけど、わたしは何だか嫌な予感がしていた。あの距離で、これだけの人の中でわたしを見つけた龍平さん、何者…。
 わたしと利乃が座るテーブルまで来て、龍平さんは立ったまま座っているわたしを見下ろした。

「宗祐先輩、お疲れさまです」
「お疲れー利乃ちゃん」

 何で何も言わないんだろう。横で挨拶をする利乃を尻目に、わたしは龍平さんと…睨み合ったままだ。

「…どうかした?」
「…いや?居たから来ただけ」

 それだけかよ!とは流石に言わなかった。だってあなた、はっきり言って女子ばっかりのこの学食では超目立ってますよ…。

「晩飯、ミートソースがいい」
「…いいよ、挽肉もトマトもあるし」
「6時な」
「朝も聞いたよ」

 一問一答にどんどん無愛想になるわたし。嫌だなぁ、知らない人がこっち見てるの。

「ひより、先輩の友達と知り合いだったの?」

 きょとんとした利乃が今更なことを聞いてくる。宗祐先輩は話したそうにうずうずした顔してる。
 そうか、利乃に男の人と同居してることは話したけど、顔は知らなかったのか。

「…この人だよ、うちの」
「居候」

 わたしの言葉を勝手に引き継いで、龍平さんが答えた。

「え!マジで!」

 マジですよ、利乃さん。そして大声で言わないで…。

「今度の龍平の家主、利乃ちゃんの友達だったんだね」

 今度の、という言葉が気になったが、まぁそういうことだ。宗祐先輩に、わたしも挨拶しとくべきなのかな。

「…結城ひよりです」
「ひよりちゃんね。龍平持て余したらすぐ俺に言うんだよ。相談乗ってあげるから」
「ありがとうございます。そうします」

 宗祐先輩は快活に笑った。うわーいい人。龍平さんの友達なんて、みんな龍平さんみたいにふてぶてしいかと思ってたのに。

「宗祐余計なこと言うな。…じゃ、あとでな、ひより」

 ちょっときつめに宗祐先輩をどついて、龍平さんは離れて行ってしまった。
 名残惜しくもなんともない背中を見送ると、朝の光景と重なった。遠退く背中は、見知らぬ人のもの。

「ひより!超いい男じゃん!」
「…見た目が?」
「うん!見た目大事だよ、見た目」

 そりゃ、大事じゃないとは言わないけれど。でも中身は身勝手、無愛想、無頓着の三拍子だからね。

「ひより、って呼ばれてるんだね」
「うん?」
「なんか親しげでいいね」

 利乃はやっぱり楽しげに目を細めたけれど、実際そんなことはないと思う。
 だって宗祐先輩も言ってたじゃない、わたしのこと、今度の家主、って。
 今度ってことは、前があって、先もあるってことだ。
 そうでしょう?



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