錯覚アドバンテージ


 深夜零時。わたしはアパートのリビングに一人だった。
 別に今更寂しくも何ともない。だって一人暮らしは長いし、夜中に一人とか当たり前だ。
 でも、少し物足りない。最近は一人じゃなかったから。聴きもしない音楽がかかりっぱなしの部屋で、わたしは鳴りもしない携帯を見つめ続けた。
 鳴るわけないんだ。龍平さんはそんなマメな人じゃなさそうだし、約束があるわけでもないし。

 龍平さんが、帰って来ない。
 龍平さんがこの部屋に来てから、初めてのことだ。
 いつもわたしより遅れて帰ってきていたし、わたしがバイトの日でも日付が変わる前には玄関のチャイムが鳴っていた。
 ひんやりとした予感がわたしの心を撫でる。そうかもね。きっとそうだろうね。
 龍平さんは、早々にわたしの家を出ていくことにしたんだね。今度の家主が、また見つかったんだね。
 諦めて逃げるのは楽なんだ。癖になるほど、それは甘やかな誘惑で。
 きっと龍平さんだっていつか居なくなるんだから。それがたまたま今日だったって、割り切るより他にない。だって龍平さんはここにいないから。大丈夫、もともとそんなに知らないし、今なら赤の他人に戻れる。諦めきれる。
 最後に恨めしく携帯の画面を開いて閉じて、わたしは部屋に戻って布団に潜りこんだ。


 *


 翌朝、わたしはチャイムの音で目が覚めた。

 ピンポーン。ピンポーン。

「…」

 近所迷惑だ。何時だと思ってるんだ。
 わたしはのろのろと布団から出て、ドアののぞき穴から外に立つ人を窺った。

「…」

 何だ、龍平さんじゃないか。何だよ今更。
 ものすごく腹立たしいのに、手は勝手に鍵を開けてしまう。

「ただいま」
「…おかえり」

 意味わかんないよこの人。なんでここに帰ってくるんだろう。ただいまって、言う相手が違うんじゃないですか?

「寝てた?」
「当たり前でしょ。今何時だと思ってるの」

 まだ外は薄暗い。こういうの、朝帰りって言うんだ。

「ごめん、研究室籠もってたら、帰るの忘れてた」

 リビングのソファーの定位置に寛いで座る龍平さんにわたしは唖然とした。…それだけ?

「…もう、来なくなるのかと思った」
「なんで?」
「なんでって…」

 何て言えばいいんだろう。不安だったなんて言いたくない。寂しかったとも言いたくない。なんでそう思ったのかって聞かれても、そう思ったとしか言い様がない。

「…そんな気がしただけ」

 そう、そんな気がしただけだよ。

「俺、ここしか帰るとこないよ」

 息が詰まった。本気で言ってたら頭狂ってるよ。本当は実家生のくせに。家族がいるくせに。友達だって普通にいるじゃん、ここだけじゃないじゃん。…でも、本気であってほしいよ。

 キッチンでお湯を沸かしていたわたしはとてもじゃないけど龍平さんの顔が見れなかった。

「…じゃあ連絡くらいしてください」
「わかった。…ベッド借りていい?眠い」
「いいけど、先にシャワー浴びなさい」
「はいはい」

 素直に従う龍平さんは、わたしの横を通り過ぎるとき、わたしの頭をぽんぽんと叩いた。大きな手のひらだった。

「…」

 ズルい。わたしだけ不安なんだ。寂しいんだ。
 龍平さんは自由で、好き勝手に住む場所も変えられるのに、わたしはここで待つしかできないんだ。
 おまけに帰ってくる?って聞く勇気もないから、勝手に不安になって、寂しくなって、龍平さんはそれを知らないままなんだ。

 ひとしきり胸の中で龍平さんの悪態をついたらお湯が沸いて、ティーパックの紅茶を二つ用意する。コーヒーが好きなのは知っているけど、今飲むと眠れなくなるからね。紅茶のほうがまだマシでしょ。ココアでもいいけど。
 自分のお気に入りマグカップと、龍平さんの来客用マグカップを見つめて思った。

 …やっぱり、一人って寂しい。龍平さんが帰ってきてくれて、よかった。



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