絶対ユートピア
あれから数日、わたしの家の扉はまだ一度も開かれていない。
わたし以外の出入りがあるはずもなく、わたし自身も部屋から一歩も出ていないから。
また一人になったという実感は、夜になるたび波のように押し寄せてきた。
広いベッドで頭まで布団を被っていても、二人掛けのソファーの上で小さく膝を抱えていても、否応なしにわたしを苛む。
だけど、わたしは知ってる。この喪失感も寂しさも、時間が経てばやがて薄れていくのだということを。
いや、それでもきっと、この甘く苦しい胸の痛みは、家族を亡くした時とは少し違うこの痛みだけは、まだ当分薄れないと思う。
薄れなくていい。薄れないで。
そういえば合鍵を返してもらいそびれたことに、今朝ようやく気がついた。
鍵にこだわっていたのは防犯上の問題ではなく彼との関係性の問題なので、無事―――無事、と言っていいのかわからないが―――彼がこの家を出て行った今、その繋がりの証は何の意味も為さないわけで、だから、そんなに執着するようなものでもない。無用心だからと鍵を替えるというほどのことでもない。
家から出て人と接するのが億劫だという以外はいたって普通の生活を送っていたので、さすがに冷蔵庫の食材は底を尽きかけているし、身体もなまってきている。
カーテンを開けるとほどよい春の光が差し込んできて、そろそろ買い物くらい行こうかという気になった。
一人で生きていくと決めたから、自分のことは何でも自分で面倒を見なければならない。
強くたくましく生きていくために、手抜かりはできない。
強い人になろうと、強い女になろうと決めたのだから。
アパートの下を車が走っていく音がした。
窓から外を覗くと、黒いコンパクトカーはちょうどわたしのアパートの前で減速し、狭い駐車場に苦労しながら停まった。
買い物に行くのに、車があったら便利なのに。
これまであまり考えたことがなかったけど、運転免許は取ったほうがいいかもしれない。
窓辺を離れながら、わたしはそんなことを思った。
ダンダンダンと、荒い足音が階段を上ってきたのはその時だ。
「!」
びくりと身体が震え、すぐに落ち着く。
こんなことに、いちいち驚いてなんていられない。懐かしんでなんていられない。
期待、なんて―――。
慌ただしい足音は、なぜかうちの前で止まった。
わたしは部屋の真ん中で、呆然と立ち尽くす。明らかにそこに人がいるのに、インターホンを鳴らす気配がない。
じゃり、と鍵穴に鍵が差し込まれる音がして、シリンダーが回る。ドアノブが、回る。突然のことに、わたしは身を強張らせた。
数日ぶりに、扉が、開いた。
「ただいま」
「なんで……?」
最後に見たときと何も変わらない、まだ記憶に新しい龍平さんが、照れたときによくしていたように眉間に皺を寄せた仏頂面で、どこか遠慮がちに入ってきた。
顔はわたしの様子を伺うような表情を浮かべているけど、ちゃっかり後ろ手で鍵を閉め、靴を脱いでリビングに上がって来るところはこの家に住んでいた頃そのままで。
「ただいま」
「お、おかえり………?」
何で何で何で? 龍平さん就職は? 県外出るんじゃないの? 地元に残るつもりはないって言ってたじゃん。なのに何で今ここに……。
瞠目して見上げると、龍平さんは自慢気に口角をくっと上げて笑った。
笑って、わたしに腕を伸ばす。
「俺ここしか帰るところないから」
「……嘘。就職先のほうに引っ越すんじゃ」
「就職こっちだから」
「え?」
即答で反駁したわたしに、龍平さんも即答で答える。
「車、買ったから、ここから仕事行く。そんなに遠くないし」
どうだ驚いたかと胸を張る龍平さんに、わたしは狐につままれたような、いや、それ以上に衝撃的な、何とも言えない感情を持て余して、ただ黙って龍平さんの抱擁を受けた。
わたしの、春の日差しだけでは温まらなかったところまで、じんわりと温かくなっていく。
「出ていかないなら付き合ってくれるんだろ?」
ただ目を丸くするばかりのわたしに機嫌をよくして、龍平さんはわたしの両肩に腕を乗せわたしを囲うと、ぐっと顔を寄せ、視線を合わせた。
龍平さんの柔らかな髪が額を撫でる。まっすぐに見つめてくるこの瞳からわたしが逃げられるはずもなく、わたしも黙って、その澄んだ瞳を見つめ返した。
眠たげな表情をしていることが多いのに、今日はすごく晴れやかで、溌剌とした笑みを浮かべている。
その笑みは確信に満ちていて。
わたしは、逃げられない。
「……そんなことのために、就職、結局こっちにしたの……?」
「ああ」
「それでいいの」
「それより大事なことなんてない」
真剣な瞳に言いくるめられて、わたしはまた黙り込んだ。
ようやく落ち着きかけていた涙腺がまた緩む。今朝は比較的大人しくしていたのに。腫れて赤くなっていた目元にさらにうるうると溜まった涙を、龍平さんの長い指がそっと拭ってくれた。
「就職は、実家出られたらどこでもよかったし。ひより置いて行きたくなかったし。……それに、もう遅いし」
吐息が感じられるほど近くで、龍平さんが囁く。わたしはこの擦れた、すぐ近くにいるわたしにしか聞こえない低い声に弱い。
「俺だって……ちゃんと、迎えてくれる人がいる家で暮らしたかったんだよ」
それは、龍平さんが自分の弱さを認める言葉で。それはわたしと同じ弱さで。
「だから、これからも俺をここに置いて?」
………可愛らしく首をかしげて見せたって駄目なんだから。
伺うような声音とは裏腹に笑顔は確信に満ちていて、わたしに選択権なんてない。
選択肢だって、ないけど。
「………っ、帰ってくる気ならちゃんと言ってよ!」
龍平さんが帰ってきてくれたことが嬉しくてもう殆んどどうでもよくなっているけど、わたしは龍平さんに騙されてたんだよね?
お別れなんて嘘だった。
あんなに悩んで、あんなに泣いたのに、全部、無駄だったなんて……。
「悪かったって。でも、俺がいなきゃ駄目だってわかったろ、ひより」
全然悪かったと思っていない口振りで、龍平さんが笑った。
なんて自意識過剰な。そう思うのに、否定することはできなくて。
「俺を一回振った罰だ」
さらに自意識過剰な発言を重ねる龍平さんは、やっぱり、かなり面倒くさい人だ。
ふふんと鼻で笑う龍平さんにむっとしたけど、今は何の効果もなくて。
悔しいけど……わたしはもう、この面倒くさい人じゃなきゃ駄目なんだ。温かくて優しい、龍平さんじゃなきゃ嫌。
「龍平、さん……」
嗚咽を飲み込んで広い胸に縋る。今日はスーツじゃないから遠慮はいらない。
もう二度と呼ぶことも出来ないと思っていた、最愛の名前。
龍平さんと会わない間に感じていた孤独はまるで一瞬の幻のように儚いもので、久しぶりに開けたカーテンから差し込む春の日差しとともに帰ってきた龍平さんが、あっという間に融かしてしまった。
本当は先のことなど何もわからないのだけど、きっとこの面倒な同居人は、わたしを逃がさないと言い張るのだろうから、
わたしはもう一度、誰かと一緒に生きる未来を、見つけたのかもしれない。
「ひよりは弱いから、俺が居てやるよ」
くぐもった声が耳の後ろで聞こえた。
「……傍に、居させてくれ」
さらに小さくなった懇願の声に、わたしは目を閉じ耳を澄ませた。
この部屋の空白をあなたの存在が埋めてくれるなら、どんなお願いでも叶えてあげる。
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