灰色アンティーク
じわりじわりとその日が来る予感を感じていて、けれどその訪れはまるで別世界の出来事のようで。
何の実感も湧かないまま、今日という日を迎えてしまった。
今日は、卒業式。
龍平さんが、ここを出て行く日だ。
龍平さんがそう言ったわけじゃない。だけど、四月からこの町を離れて働き始めるのだったらちょうどよい区切りだと思う。いや、遅すぎるくらいなのかもしれない。
龍平さんはそういう、身の回りのこととか生活に無頓着なところがあるから、心配してあげたほうがよかったのかもしれないけど、わたしは何も言わなかった。
ただ黙って、今日という日が来てしまうのを、龍平さんと一緒に待っていただけ。
身支度を整え、スーツ姿の龍平さんがクローゼットの扉をぱたんと閉めた。
以前運び込まれた紙袋二つ分の龍平さんの荷物は、ここ数日のうちにどこかへ消えてしまっていて、中には何も残っていないことを、わたしは知ってる。
「行く?」
「……ああ」
落ち着かない様子でネクタイを触る龍平さんを玄関まで見送りに出た。
きっと、この家で人を見送るなんて、これが最後だ。最後でいい。なんて。
黒のスーツに身を包んだ龍平さんは普段より二割増しで大人っぽくて、格好よかった。憂いを帯びた瞳も、触ると柔らかな髪も、こうして見上げるのは、きっとこれで最後だ。
最後だから……素敵な大人の龍平さんに見合う女のように、わたしも大人の、絶やすことのない微笑みを浮かべる。
決して追いつくことも、並ぶことも出来ない龍平さんに、今だけは、追いついたふりをしたい。
そうして、背伸びしたわたしのことを、綺麗な思い出にして。
「……じゃ、行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい」
気のきいたことを言ったらこれが最後だと認めることになるから、言いたくなくて。いつもと同じ挨拶で、最後の別れを告げる。
大好きだよ、龍平さん。龍平さんの気持ちに、応えられなくて本当にごめんね。それでも、龍平さんの優しさの十分の一くらいは、返してあげられたかな。
ずっとわたしのこと覚えててほしいなんて言わない。でもわたしが、ずっと龍平さんのこと覚えとくのは許してね。
わたしに出会ってくれてありがとう。わたしに優しくしてくれてありがとう。わたしを大切にしてくれてありがとう。わたしを―――。
わたしを、好きだと言ってくれて、ありがとう。
ありったけの思いを込めてもう一度いってらっしゃいと言うと、靴を履き終わった龍平さんが正面からわたしを見つめた。わたしも見つめ返す。この一年と少しの間、ほぼ毎日見続けてきた龍平さんの顔。この顔を、この人がわたしに向けてくれた微笑みをずっと忘れないように、食い入るように見つめ、胸に刻み付ける。
ゆっくりと瞬きをしているうちに、伸びてきた龍平さんの腕の中に捕らえられる。
顔前に迫るスーツからは、いつもの龍平さんの香り。息を止めると、時も止まったような気がした。
「ひより……―――、今まで、ありがとう」
耳の奥に直に響いた龍平さんの擦れ声に、鼻の奥がつんとした。
折角わたしは我慢したのに、いつも龍平さんはその努力を台無しにするようなことをする。まるで子供のように自分に正直なんだ、この人は。
抱き締められた腕に力がこもる。龍平さんは温かくて、こうしていると居心地がよくて、つい、このまま、………このままで、いられたらいいのにと願ってしまう。
スーツが皺にならないよう遠慮がちにすがりつくと、背中がしなるほど強く抱き締められた。
「また……絶対帰ってくるから」
嘘だと叫ぶことは簡単だけど、わたしは黙って目を閉じて頷いた。もう声なんて出せない。
わたしがひたすら我慢しているのを見越して、龍平さんはわたしの額に軽くキスをし、唇を額につけたまま何か囁いた。顔を離すと、くくっと低く笑った。
薄ら目を開けて見上げると、涙を浮かべてしまったわたしの顔を見て笑っていたのだとわかった。
笑えばいいよ……。貴方が置き去りにすりひとりぼっちの女の子を笑えばいい。笑って、そしてその笑顔の名残だけを残して行ってしまえばいい。
「行ってくる」
最後にとろけるような甘い、いたずらっ子みたいな龍平さんらしい笑みを浮かべて、龍平さんはわたしに背を向け、玄関を出た。
閉まりかけた扉の隙間から見えた龍平さんの最後の姿は後ろ姿。何度も見送った、広い背中。
ゆっくりと扉が閉まると、急ぐでもなくゆっくりでもなく、あくまで普段と変わらないペースで足音が遠ざかっていく。
静寂と同時に、全てが一瞬で色褪せて、過去になった。
あっけない別れにわたしは立ち尽くした。
もうこの扉がわたしの見ている前で開くことはなくて、あの気だるげな長身の男の人が鍵を開けてそっと入ってくることもなくて―――。
龍平、さん。
あぁ、今日一度も名前を呼んでないな。もう一生、声にする機会なんてない、今この世で、一番大切な名前。
龍平さん、龍平さん、龍平さん、………龍平さん―――。
なんとか目元で押し止めていた涙が、じわじわと乗り越えて溢れ出す。
『ひより……愛してる』
耳元に吹き込むようにして囁かれた、初めて聞いた「愛してる」はただ切なくて。
……そんなこと言わないでよ。最後の最後までわたしを散々甘やかして甘やかして、どろどろにしておいて、……―――それで、いなくなるなんて。
龍平さんと一緒にいても、頭のどこかでいつもわかってたのに。こうなるってわかってたのに。結局、そのときだけの優しさに溺れて、結局は傷ついて、
でも、ずっとわかってたから、後悔はしてない。こうなるってわかってたから。
胸が苦しいのはどうしようもないけれど、情けない未練に涙が出るのは止められないけど、でも、ちゃんと頭では今も、わかってるんだ。
もう全部戻ってこないってことを。
平気だとか言っておいて、全然そんなことなかった。やっぱり家族を亡くしたことはわたしのなかで大きなしこりになっていて、もう絆をつくるのが怖くて、多分、もう二度と―――。
大切な人なんてつくれないよ、龍平さん。
貴方でなければ駄目だったんだよ。
さよなら、愛しい人。
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