深層シンパシー


 年が明けたらタイムリミットだろうな、と思っていた。
 ぼんやりとそう思っているうちにやすやすと新しい年はやってきて、わたしは年度末の試験やレポートの準備に追われ、龍平さんは……修士論文の、卒業の準備に追われていた。
 日毎に帰る時間が遅くなる龍平さんを見て、わたしは起きて帰りを待ちながら「これは一人に戻るための準備期間だな」と思っていた。
 また、一人でこの部屋に居る時間が増えていく。

 今夜もテーブルにラップをかけた夕飯を並べて、龍平さんを待つのかと思うと、少し切ない。
 温めなおしても味が損なわれないメニューは何だろうかと考えていると、携帯電話の着信音が鳴った。

「もしもし?」
『俺だけど』

 いつもの低い声が聞こえてつい口元が緩んだ。わかってるよ、そんなこと。

「うん、どうしたの?」

 よくわからないけど、龍平さんは滅多に電話なんかしてこない。いつも連絡にはメールをつかう。
 だから、電話は珍しい。珍しいから胸が弾む。でも同時な、嫌な予感もする。

『いや……今日さ、修論、提出日で』
「そうなんだ。お疲れさま」
『ん……。だから、夜研究室で飲み会だから』
「ああ……。うん、わかった。じゃご飯いらないのね?」
『まぁ……』

 歯切れが悪いのは、きっと後ろめたいからだ。気にしなくていいのに。わたしは龍平さんの自由を奪ったりはしないのに。

『あのさ、……行くなって言わないの、ひより』
「え、言わないよ?」

 そんなこと、言われるなんて思ってなくて、わたしは驚いた。

『……言ったら俺、行かないかもよ』

 ……うわぁ、嫌な言い方だ。行かないかもって、それって行かないのと同じくらい行くかもしれないってことで、それでもそれをわたしに聞くなんて。

「……それでも、言わない」
『……』
「行かないでなんて言わないよ、わたしは」

 そんな子供の我が儘は、もう言わない。龍平さんにそんなこと言う資格がないとかそういう問題ですらなく、それは、わたしがわたしとして生きていくための、わたしとの約束なのだ。

 一人で生きていくと決めた。
 一人で生きていけると、悟った。

 それも全部龍平さんのせいで、龍平さんのおかげで。
 だから、いわばわたしの人生の恩人である龍平さんの未来を、生き方を、やりたいことを、わたしが縛ることなんてできない。

 それが答えだ。

 わたしは、行かないでほしいに決まってる。でも、わたしがそんなこと絶対に言わないって、龍平さんも、わかってるくせに。
 硬くなったわたしの声に龍平さんは言葉を無くした。わたしは見えないとわかっていて微笑んだ。

「わたしのことは気にしないで、飲み会楽しんで来なよ」

 努めて明るく言えば、ちょうど電話越しに喧騒が、おそらくは宗祐先輩が携帯電話を握りしめる龍平さんをからかう声が聞こえてきた。
 ほら、タイムリミットだよ。

「明日休みだし、起きて待っててあげるから」

 どちらが年上かわからないような口調で諭す。

『わかった。……早めに帰る』
「遅くなってもいいんだからね? でもその時は連絡してね?」
『帰るよ。絶対今日中には帰る』
「はいはい……。じゃ、待ってるね。楽しんで来てね」

 名残惜しく電話を切って、大きく息を吐いてわたしはソファーにどっかりと背中を預けた。
 夕飯の心配がいらなくなっただけで、少し気が楽になる。

 ……本当は、龍平さんは引き止めて欲しかったのかもしれない。
 多分、いや絶対、わたしに寂しがって欲しかったんだと思う。でも、その手には乗らないよ。
 起きて待ってるだけでも、十分譲歩してる。わたしは龍平さんにとことん甘い。

 駄目だとわかっているのに甘やかすのを止められない自分がいて、それが少し楽しくて。
 あと少しの間だからと、わたしはわたしを甘やかしているのだ。



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