糖蜜プリズン


 ソファーに座りテレビを見ていた龍平さんの傍へ来て絨毯の上に座ると、すかさず上から長い腕が伸びてきた。

「?」

 何がしたいのか一瞬わからなくて、けれどすぐに気づいて自分で動こうとしたときにはもう遅かった。

「! ちょっと、龍平さん!」

 まるで幼い子どものように、両脇の下に手を差し入れられて抱えられ、そのまま龍平さんの膝の上に乗せられる。

「ちょ……! おろして! ちゃんと隣に座るから!」
「今日はここでいいだろ」
「よくない!」

 わたしの非難なんてものともせず、そのままわたしの腰に腕をまわして固定して、何事もなかったようにテレビを見続ける龍平さん。最近は大人しくなっていたのにとわたしは若干頭を抱えた。
 龍平さんは、こういうことを平気でしてくる。確かに家の中は他に誰もいないけど、確かに龍平さんの広い胸は丁度よい背もたれだけど、でもわたしとしてはやっぱり恥ずかしい。だって、膝の上!
 ……わたしは龍平さんのペットか。
 この家の中だと龍平さんはすぐ抱きついてくるし、両手を広げて待ってるし、すぐ膝の上とか組んだ足の上に、わたしを座らせようとする。

「龍平さん……わたしのこと猫か何かだと思ってる?」
「いや?」

 そう言いながらも背後からわたしに回す腕の力は緩めない。
 視線はテレビから逸らさないままの龍平さんに、わたしも抵抗することを諦めた。だってきっと、わたしがどんなに不満げに見つめたって、龍平さんはこっちを向いてくれないんだ。
 わたしも黙ってテレビを見ていると、龍平さんの大きな手のひらがわたしの手を捕まえたり、髪を撫でたりし始めた。落ち着きがない。

「くすぐったい……」
「ああそう」

 わたしの苦言にまったく取り合ってくれない。あんまり勝手なことしてるとわたしだって怒るよ。

「わたし、先にお風呂入っていい?」
「もう少し」

 何がもう少しなのか、そう言った龍平さんはまた腕をわたしの腰に回しぐっと力を込めた。身体全体でわたしを抱きしめてくれている龍平さんは、きっともうテレビなんてどうでもいいに違いない。最初から、どうでもよかったのかもしれないけれど。
 わたしの名前を呼ぶ小さな声が聞こえた。背中で聞こえたかすかな声に返事をするべきか迷って、わたしは目を閉じた。

「ひよりのこと、猫とかペットとか思ってない。でも」

 龍平さんの顔がわたしの首筋に寄せられる。柔らかな髪がくすぐったくて、押しつけられた額が温かい。

「………逃がしたくないな、とは、思ってる」
「………―――」

 龍平さんは、多分世間的にはものすごく面倒くさい人だ、ということに、わたしもこうなってしばらくしてから気づいた。
 過剰なまでの独占欲。……過保護っていうのかな。一人でふらふら自由気ままに生きているのかと思いきや、実際は全然違う。
 いつも周りのことを見てる。傍にいる人と自分の関係性や距離感を測ってる。
 そんな、ものすごく臆病で慎重な人なんだ。
 龍平さんも、弱い人なんだ。
 わたしも弱いから、そして龍平さんにたくさん助けられているから、龍平さんの弱い部分には、わたしが助けになってあげられたらと思う。
 わたしのように家族と死別しているわけではないけれど、龍平さんも、決して幸せな家庭で暮らしていたわけではなかったし。多分わたしと龍平さんは、同じものが足りなくて、同じところが弱かったんだ。

「……逃げないよ」
「―――」
「わたしは、ここにいるから」

 きっと今のわたしは、龍平さんが他の人と保っている距離より、ずっと近いところにいると思うから。わたしにとって龍平さんが一番身近な人になっているのと同じように、きっと龍平さんの中ではわたしが、一番近くにいる人なはずだから。お互いのテリトリーを共有して、それを許しあっている。そんな感じ。
 本当は、始めから龍平さんの弱さに気づいていたのかもしれない。あの雨の日に、窓の外で降り続ける雨を茫然と見上げていた龍平さんを見たときから、龍平さんにも帰る場所がないということに、なんとなく気づいていたような気がする。気づいていて、しかもわたしが龍平さんに必要とされていると感じていたから、わたしは龍平さんを好きになったのかもしれない。
 今はもうよくわからないけれど。
 龍平さんだったら、もうそれだけでいいのだけれど。

 今なら、龍平さんに好きだと伝えきれなかった頃のわたしの弱さがよくわかる。あの頃のわたしは本当に弱かった。知らなかったんだ。誰かを大切に思うことで、強くなれるということを。
 立ち直ったふりをして、強がって、本当は失くしたものを嘆いてばかりいたから、失くすことがとにかく怖かった。
 でも今は少し違う。
 失くすことは、確かに気が狂うほど怖いけど、でも、何もかもなくなるわけじゃないってことに、気づいたから。
 わたしはここにいて、龍平さんがここからいなくなっても、多分、わたしは龍平さんを追いかけたりしない。
 もう二度と会えないなんてそんな現実が来ることは本当に怖いけれど、それでもきっとわたしはここを離れないと思う。
 龍平さんの傍が、龍平さんと過ごしたこの部屋が、わたしの居場所なんだ。だからわたしはここを離れない。例え龍平さんと別れてしまうことになっても、わたしはこの場所で、この場所と共に生きていける。
 ……それくらい、大切なんだ、龍平さんが。龍平さんがくれるものが。

 龍平さんの腕の中で無理やり身体を反転させて、正面から龍平さんに抱きついた。広い胸に、顔を埋める。
 服をきゅっと掴んで、龍平さんの心臓の音に耳を澄ませた。もう何度も聞いた音。生きている人の音。
 時計の針よりも正確に、生きている時間を刻む音。ずっとここで聴いていたいと思うけれど、それは無理なんだ。わかってる。だから、こうして耳を澄ませていられる今を、深く深くわたしの胸に刻む。

 今の幸せな記憶や思い出があれば、いつか来る別れに、耐えられるんじゃないかって思えるくらい、龍平さんに関わるすべてが、大切なんだ。



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