曖昧リリック


 あの日から……―――龍平さんに告白されたあの日から、わたしの生活はほとんど変わっていない。
 家には今も龍平さんと住んでいる。少し変わったと言えばソファーが龍平さんの特等席ではなくて、わたしと龍平さんが並んで座るための場所に変わったことと、龍平さんが時々ベッドで寝るようになったということだ。わたしのベッドで。わたしと、一緒に。
 そのくらい……関係は相変わらず家主と同居人で、普通に大学に通って、帰ってきて、ご飯を食べて、寝る。そんな生活。
 正直わたしは、龍平さんのことをただ一方的に好きだと思っていたときは、こんな当たり前の生活さえ壊れてしまうのではないかと思ってた。わたしの何もかもが龍平さんを中心に回り出したら、きっとこのままじゃいられないと思ってた。それくらい、大切で、それくらい、怖かった。
 でも、そんなことはないのだと、こうなってみて気づいた。あの日以来龍平さんは特にわたしに何を言うでもないけど、それでもわたしが龍平さんを好きでいることを知っているし、わたしも……―――龍平さんが、わたしを好きだと言ってくれたことをちゃんと知っている。
 ただ、それだけ。

「結城さん」

 名前を、名字のほうを呼ばれるなんて珍しいなと思って振り返ると、そこには男の子が立っていた。宗祐先輩や詩織さんとは違う、どこか子どもじみた幼さが抜けきれない、同じ年くらいの男の子。それでも龍平さんと四つくらいしか年は変わらないはずなのに、随分と幼く、落ち着きがないように見えてしまう。
 顔は見たことがあったので、学科が同じ男の子だということはわかる。ただし、名前はわからない。
 特に話したことがあるわけでもないのに何の用だろう。

「あのさ、俺のことわかる?」
「学科の人だよね? ……ごめんなさい、名前なんだっけ?」

 少し落胆したような表情を見せたけれど、仕方ない。知らないものは知らないし、これまでに自己紹介をされた覚えもないからわたしに非はない、はず、だ。

「仙道隆志だよ。結城さん、……よければメアド教えてもらえないかな?あとさ、今週末とか、暇……?」

 ああ、そういうことかと、鈍いわたしでもわかった。直球というか、度胸があるなぁ、仙道くんは。話したこともないわたしに。しかもいきなり遊びに誘うとか。
 わたしは、一緒に住んでいる人相手でも無理なのに。
 少し見上げなければ窺えない仙道くんは決して悪い人には見えない。髪も派手な色に染めてるわけじゃないし、服のセンスだって多分悪くない。第一印象は、本当に悪くない。
 でもね、わたしは駄目なんだ。君にわたしは扱えない。
 どうやって断れば彼の傷を最小限に抑えられるだろうか、経験がないわたしにはまったくわからない。でもできれば傷つけたくなくて、でも断らないわけにはいかなくて。
 困った顔をしたわたしを見て、仙道くんも困った顔をしている。何か言わなきゃ。

「あ、あのね」

「ひより」

 後ろから聞こえた声が、どこか不機嫌そうな低い声が、ちょっとした窮地のわたしには神の声に聞こえた。それと同時に、ぱっと手を掴まれた。冷えていた指先が、強く掴まれて痛い。痛いのに、その温もりに安心する。もう大丈夫だと、確信した。
 振り返る前からわかっていたけど、そこに立っているのは龍平さんで。そのずっと向こうには宗祐先輩が、にやにやした笑みを浮かべて立っている。

「何してるんだ。……そいつ誰?」

 ぎろりと音を立てそうなほど、鋭い目つきで龍平さんが仙道くんを睨んだ。
 わたしは龍平さんの登場で助かったけど、仙道くんは……災難だろうな。

「学科の子。仙道くん」
「ふうん」

 含みのある龍平さんの声に、仙道くんが目に見えて怯えている。ごめんね、仙道くん。わたしなんかに声をかけてしまったばっかりに、こんな怖そうな上級生に睨まれることになってしまって。

「……ごめんね?」

 龍平さんは何を説明するでもないけれど、そんなことは龍平さんの役目ではないのだけれど、多分その眼付とか、態度とか、雰囲気は言葉よりも雄弁だったはず。

「いや……じゃ、また授業で」
「うん。ホントごめんね」

 仙道くんには本当に悪いことをしたと思う。こんな怖い思いをさせるつもりはなかったのに。そそくさと逃げて行く後ろ姿を見つめて、そう思った。

「……で、何だったんだ」
「週末暇ですかって聞かれただけだよ」
「……何て答えたんだ」
「答える前に龍平さんが来ちゃったから何も言ってないよ。メアドも交換してないし、何もないよ」

 見上げる龍平さんの顔にはまだ疑いの色があって、首を傾げて、安心させるようにしばらく微笑んでも、なかなかその硬い表情を崩してはくれなかった。

「……わかった」

 龍平さんは渋々納得してくれたみたいだけど、本当はわたしたち、そんなこと問い詰められなきゃいけないような関係じゃないよね?
 そう思いながら、頭の片隅では、すでにそういう問題でさえなくなっていることもわかってる。

「で、週末は暇なのか?」
「え?」

 顎でしゃくって、宗祐先輩が待つほうへ歩き出す龍平さんにつられてわたしも歩き出した。どうせもう帰るところだったし。手、離してくれないし。
 並んで歩く距離が近いのは、いまだ繋いでいる手を宗祐先輩に見られたくないからだろうか。……だったら離せばいいのに。

「週末」
「暇だよ……ていうかいつも暇じゃん、わたし」

 家で龍平さんとテレビを見たり本を読んだり、たまに買い物に行ったりお散歩したり。そんなの、いつも見て知っているくせに。

「そうだな。……じゃ、今週はちょっと遠出するか」

 宗祐先輩に近付くのを少しでも遅らせようとするように、のろのろと歩く龍平さんがのんびりと言った。
 驚いて、思わずその顔を見上げた。

「……デート?」
「さあ? ひよりがそう思いたければそうなんじゃ?」

 わたしが思いたければ……。だったら、これはデートの約束ではないんだな。だってわたしは龍平さんと付き合ってないし。付き合えないって言ったし、龍平さんもそれでいいって言ったし。だから、デートじゃない。……だだのお出かけ?お買いもの?

「何処行きたい?」
「え?」
「デート」

 龍平さんは口角を上げてにやりと笑った。

「……やっぱりデートなの?」
「知らないのか、ひより。二人で出でかけることをデートって言うんだぞ」
「そうなの?」

からかうように楽しげに、それこそ繋いだ手を振りまわしそうなほど楽しげに言った龍平さんは、けれどわたしが真面目に問い返すと仕方ないという顔をして苦笑した。

「相手が誰でもいいってわけじゃないけどな」

 言い終わると同時にぱっと手が離れた。すぐそこにはさっき遠目に見たときにやにやした笑みを深めた宗祐先輩が立っている。

「おかえり。お姫様は無事だった?」
「お姫様とか言うなキモい」

 そういう気障なセリフを素で言ってのけるところが宗祐先輩のすごいところだ。龍平さんの容赦ないつっこみも流石といえば流石。

「ひより、もう帰るんだろ? さっきの考えとけよ」
「はーい。……じゃ、宗祐先輩お疲れさまです」
「うん、ばいばーい」

 嫌そうな顔をする龍平さんを横目に宗祐先輩とにこやかに挨拶を交わして、わたしは二人とは反対方向に歩き出した。二人は工学部の実験棟のほうへ。わたしは正面門のほうへ。
 二人はまだ実験とか、修士論文の話とかがあるのだろう。大変だ。
 大学を出て家路を歩きながら、見送った二人の背中を思い浮かべた。
 二人が卒業するまでに、あと何度あの並んだ背中を見ることができるだろうか。一緒に住んでいる龍平さんはともかく、あと何度宗祐先輩と会うことがあるだろうか。
 卒業までの日にちを考えるとそれだけで心が冷たくなる。締め付けられるほど苦しくなるけれど、今はそれを真剣に考えることを容易く放棄できる。

 それくらい、幸せで。

 誰かに大切にされているということが、こんなにも居心地がよく、温かく優しいものだということを忘れていた。龍平さんが、思い出させてくれた。
 だからなんとなく、わたしはもしかしたら、もう大丈夫なんじゃないかという気がしていた。



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