誘惑テンペスト


 普段は龍平さんの特等席であるソファーの上にだらしなく寝そべって、意味もなく時間が過ぎるのを待っていた。
 今すぐやらなければいけないことがあるでもないし、夕食の準備をするには早すぎる。
 それに最近は考え事のしすぎで頭を使っているから、慢性的に眠たいのだ。
 まだ傾き始めてさえいない太陽が柔らかな光をベランダの窓から注ぎ入れてくれている間だけ、もうしばらくゆっくりしようか。現実を忘れてしまおうか。
 そう思っている間に、意識は途切れてしまった。





 気づいたのはその肌寒さのせいだと思う。
 室内はいつの間にか薄暗くなっており、日は完全に沈んでしまったようだ。それに気づいた途端に、わたしの頭は急速に覚醒した。
 夕飯の支度!
 急がないと龍平さんが帰ってきてしまう。子どものようにすぐ「おなかすいた」という龍平さんを待たせないことは、わたしなりのひとつの意地。
 そのくらいしか、できることがないから。
 ソファーの上で横になっていたため身体が少し痛い。それでも起き上がろうとして、ふと気付いた。
 わたしが寝ているのにも構わずに、ソファーのふちに人が腰かけている。室内が暗くて、寝起きの目はかすんでよく見えないけれど、この部屋にわたし以外に人がいるならそれはもう一人しかいなくて。

「……りゅうへいさん?」

 声がかすれる。それほどぐっすりと眠りこんでいたらしい。名前を呼ばれて身じろぎをした龍平さんの顔が、わたしのほうを向いていたことがわかった。

「帰ってきたの……」
「ああ」
「でんき」
「ひよりが眩しいと思って」
「ごめんね……」
「いや」

 いいもん見たし、と言った龍平さんがにやりと笑みを浮かべるのが、暗闇の中でも見えるような気がした。寝顔を見て笑うなんて趣味が悪い。起こしてくれればよかったのに。

「ご飯、作るから」

 浅くソファーのふちに腰かけている龍平さんがどいてくれないと起き上がれない。いや、起き上がれはするけどここから動けない。

「いいよ、別に」
「よくないでしょ……」

 手のひらでそっと押しても動こうとしない龍平さんが、身体ごと捻ってわたしのほうを向いた。仰向けにソファーに寝そべるわたしは見下ろされていて……恥ずかしい。なんでどいてくれないかな。

「りゅうへいさん」
「ひより」

 室内は暗いが外は真っ暗になったわけではないらしい。わたしを見下ろす龍平さんの瞳に少しだけ空の明るさが映って、その光の鋭さに無意識に惹きつけられる。
 ようやく見えるようになってきた龍平さんの顔には、絶対にわたしに目をそらすことを許さないという気迫が浮かんでいた。
 真剣だった。

「……もう無理」
「え?」

 その真剣な瞳が、目の前に迫ってくる……。わたしの両の耳元に手をついた龍平さんは、まるでわたしに覆い被さるように近づいてきた。

「龍平さん?」

 驚きと困惑。動けないわたしは、龍平さんの行動をただ受け入れることしかできなくて。
 額に龍平さんの柔らかな髪を感じる。胸に感じる圧迫感。耳元で龍平さんの囁くような声が聞こえた。



「好きだ、ひより」


「!」



 息が詰まった。もう自分の呼吸になんて気をつかっていられなくて、ただ龍平さんの吐息や、次に聞こえるかもしれない言葉に耳をすませた。
 今、龍平さんは何と言った? 好き? 何を……―――わたしを?

「りゅうへい、さん……?」

 嘘か本当か疑うなんて、そんなことはしない。何を考えているのかわからないところも横暴にわたしを離さないでいるところも確かに龍平さんだから、きっとこんな龍平さんもいつもの龍平さんの一部なんだ。だから、きっと嘘じゃない。
 でもこんな龍平さん見たことない。声は弱々しいのに真剣で、全然、ぴくりとも動かなくて。
 どれくらい、そうしていただろう……。もうわたしは、自分のどくどくと脈打つ心臓の鼓動を数えるのに必死だった。実際はそんなの数えきれないけれど。あんまり早すぎて、破裂したらどうしようなんて、馬鹿なことまで考えてしまった。
 自分の気持ちを隠すことばかりを考えてきたから、こんな状況は本当に想像の範囲外で。本当に――――本当に、龍平さんがわたしのことを好きだと言ってくれたのなら、わたしはどうするのだろう。……どうする?

 鼓動が少し落ち着いてきた頃、龍平さんはのろのろと上体だけを起こした。まだ両腕をわたしの頭の横についていて、ソファーに腰かけて身体をひねった変な姿勢のまま。
 それでも、わたしを腕の中に閉じ込めたまま。
 顔を上げた龍平さんと、超近距離で目が合った。もうすっかり外も暗くて、部屋の中はぼんやりとものの形がわかる程度。なのに龍平さんの瞳がまだあの真剣な光を称えて、わたしを見ていることがわかるのだ。
 そのまっすぐにわたしだけを見ている瞳が嬉しくて―――苦しくて。

「返事は」
「え?」
「俺、告白したんだけど」

 答えは、と低く囁かれる。有無を言わせない、強い声。
 わたしが好きな、龍平さんの声。
 それ以上言わずにわたしの答えを待とうとする龍平さんの瞳はやっぱりまっすぐで、わたしは目をそらせないままで。
 その瞳を見つめ返しているうちに、涙が滲んできた。
 龍平さんがわたしを好きだと言ってくれたこと、嘘だとは思わない。思わないけど、信じられなくて。信じたく、なくて。
 だってわたしは、わたしの理屈で、龍平さんを好きにならないって、付き合うとか、絶対にありえないって決めたのに。わたしが寂しさに耐えられないから、わたしが弱いから、もうこれ以上、引き返せなくなる前にやめるって決めたのに。わたしはまだ子どもで、詩織さんみたいな大人の女性にはなれなくて、だから……うまく線引きなんてできないから。
 わたしが詩織さんくらい大人で、自分のことよくわかってたら、きっと初めから、心の底から、本当の本当に龍平さんのことをただの同居人って思えたのに。期限付きの同居人で、ほんのわずかな間だけわたしの寂しさを紛らわせてくれる都合のいい人だって、ただそれだけの人だって思えたはずなのに。
 口でどれだけ龍平さんのこと同居人だって言ったって、本当はそれを否定したくてたまらなかった。同居人よりもっと龍平さんに価値のある存在に引き上げてほしかった。ずっと、ずっと、願ってた。
 わたしが弱いばっかりに、きっとわたしは龍平さんを困らせる。わたし自身だって困ってる。もうどうしようもないのに。わたしの望み通りになるわけないのに。

 龍平さんを好きにならなければよかったなんて、もう遅すぎる。

 好きにならなければなんて、もう絶対に言えない。言えば龍平さんを傷つけるから。言えないけど、わたしはこんな、また独りになることがこんなに怖いと思うような自分に、なりたくなかった。

「……そんなに嫌か」
「え?」
「泣いてる」

 龍平さんの言葉に応えるように、頬を涙が一筋すうっと流れた。龍平さんの指が、その跡をそっと拭う。
 嫌じゃない。嫌いじゃないんだよ、龍平さん。口にすることはできなくて、わたしはただ頭を振った。

「じゃあ怒ってる?」
「……怒ってないよ」
「だったら返事」

 多分、わたしが何か答えを出すまで、このまま動かないつもりだ。嫌じゃない、怒ってないというわたしの応えに強気を取り戻したのか、龍平さんの声にはいつものふてぶてしさが戻ってきている。
 今のわたしに、龍平さんに答えられることがあるだろうか。好きだけど、付き合えないとか。付き合えないけど、傍にいてほしいとか。
 ……もう、一人で考えるのは限界なのかもしれない。全部言って、それで龍平さんに納得してもらえばいい。わたしの事情は知っているのだから、きっとわかってくれる。
 何より、好きだと言って、わたしにも好きだと言ってほしいと訴えてくる龍平さんを、このまま待たせることなんてできない。

「わたし……―――」

 話すと言って、何から話せばいいだろう。何まで話せばいいだろう。ねぇ、何と言ったら、龍平さんを傷つけないですむのかな。

「わたし、龍平さんとは今までの関係でいたい。家主と同居人でいいの」

 触れたところは温かくて、触れていなくても、やっぱり龍平さんがすぐ近くにいてくれるというだけで温かい。もっともっと近づけたらと、そう願っていたこともある。本当は、今もそうなのかもしれないけれど。

「……他の、名前のある関係性なんていらないの。卒業するまで龍平さんがここに居てくれたらそれでいいの。卒業以外のお別れをしなくちゃいけない関係に、龍平さんとなりたくないの……!」

 まずい、また涙目だ。

「……っ、好きだよ、大好きだよ。でも、わたしは一人だから。一人のままでいるって決めたから。すぐここを出て行くってわかってる人に、そんな、深入りとか、できないよ! だって傷つくのは……わたしなんだからっ!」

「知らね」

 言葉にして、それを自分の耳で聞くのが辛くてまた涙が込み上げてきた。息苦しくなったわたしに、龍平さんの淡白な、抑揚のない声が響く。

「好きなら、それでいい」

 聞こえ終わらないうちに、キスをされた。初めてだけど、きっとこれをキスと言うのだ。
 優しく唇を押し付けるだけのキス。少し離れては、角度を変えて何度も。
 片手をわたしの頬に添え、涙の跡を拭うように撫でる。その手もすごく優しくて、わたしは益々涙が止まらなくなる。

 こんなに優しい手を、わたしは本当に振り払えるのだろうか……―――。
 わたしだけを支えるこの手を、こんなにも優しくて、労わってくれる温かな手を。

 されるがまま、求められるがままの状態で、ぼんやりとそんなことを思っていた。
 顔を離した龍平さんは、完全にいつもの自信ありげな、わたしに嫌とは言わせない龍平さんの顔に戻っていた。口元には、満足そうな笑み。

「好きなら付き合ってたって付き合ってなくたって一緒だろ。ひよりが付き合いたくないって言うならそれでもいい」

 まるで子どもを甘やかすように、わたしの髪を撫でながら龍平さんは言った。

「今ひよりの中で俺が一番なら、それでいい」

 それが一番問題なのだと伝えたかったけれど、龍平さんがあまりに嬉しそうにわたしを見つめ、撫でてくれるからもう何も言わなかった。
 目を閉じて、龍平さんのシャツに手を伸ばした。
 くしゃりと掴んで顔を寄せ、まだどんどん涙腺を越えてくる涙と嗚咽を押し殺そうとした。
 優しくて嬉しくて、やっぱりずっとここに居たいと思った。



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