明滅サイン
いただきます、とひとつ挨拶をしてわたしが作ったご飯に手をつける龍平さんは、意外と律儀だ。
最近は本当に、二人で夕食を食べる機会が増えた。わたしも寄り道をせず家に帰るようにしているし、龍平さんも、余程研究が忙しくない限りはここに帰ってくる。いつもより少し帰りが遅れるという程度なら、連絡があればわたしも待つようにしているし。
特に会話が弾むわけでもないけれど、テレビは無意味につきっぱなしだけれども、同じ食卓に人が、龍平さんが居てくれるだけでいい。それだけでいい。
「ひより」
「ん?」
いつもなら食事を無言のうちにぺろりと平らげてしまう龍平さんの、箸の進みが遅いことには気づいていた。今夜はパスタがメインなので、箸ではなくフォークだけど。
わたしの名前を呼んで、フォークを動かす手を止めて、じっとこっちを見ているのになかなか次の言葉が出てこないらしい。思案げな顔は以前なら怖かったけど、今のわたしはもう怖くない。怖がってはいない。
龍平さんの言葉を促すように見つめ返すけど、龍平さんは気まずそうにフォークでパスタをくるくると無意味に巻き取りながら、なかなか続きを言ってくれない。
これでも、わたしは結構頑張っているのだ。だから早くして。早く言って。
「……あのさ」
「うん」
ここまで歯切れの悪い龍平さんも珍しい。まぁ、最近の龍平さんが全体的に変なのも事実だけど。やっぱりあの日から何かが変わった。わたしも、龍平さんも。
「ひよりさ」
「うん」
「俺のこと、嫌いになった?」
「――――は?」
え、何がどうした? 予想外すぎる龍平さんの言葉にわたしは唖然としてしまった。何を根拠にそんなこと思ったんだろう。というか質問が唐突すぎるし、そんなことわたしに聞く意味がわからないよ。
唖然とするわたしをちらりと一瞥して、龍平さんはばつが悪そうにまたフォークでパスタをつつき始めた。その姿は、駄々をこねる子どものよう。
「え……何で」
「なんか、最近ひより変だと思って」
それ龍平さんでしょ、と言いたい気持ちをぐっとこらえた。後ろめたい気持ちがまだあるから、あんまり危ないことは聞きたくない。
「そんなことないよ」
「そうか?」
「わたし、嫌いな人家に上げたりしないよ。ご飯も作らないよ」
だってそうでしょう? それさえ疑うなんてことはないよね?
またわたしの顔をじっと見つめた龍平さんは、しばらくして短く息を吐き、目をそらした。
「……だよな。悪い、変なこと聞いて」
「いや、いいけど……。自分のこと嫌いかとか、よく聞けるね」
もしわたしが嫌いだって言ったら、龍平さんはどうしたのだろう。黙ってこの家を出ていくのかな? それってかなり気まずくない? お互いに。
まぁ、わたしが相手なら、絶対にありえないけどね。
嫌いなわけがない。でも、好きだとも言えないし、言わない。
龍平さんが卒業してこの町を出ていくまで、あるいはそれより早く新しい家主を見つけたというのならその時まで、ここは龍平さんの家でもあるんだよ。
だから、そんなこと心配しないで。
「今のはちょっと……ごめん、俺のほうが変だった」
「うん、吃驚した」
「悪かったって」
拗ねたようないつもの龍平さんの声を聞いて、わたしの止まっていた手が動き出す。くるくるとパスタをフォークに巻き付け、口に運ぶ。
「……もうあんまり自分に余裕なくて。聞いておかないと怖かったんだ」
「え?」
「ごちそうさま。美味かった」
「龍平さん? どういうこと?」
いつの間にか空になった皿をキッチンに運ぶため立ち上がった龍平さんの背中に、わたしは慌てて問いかけた。今何か、意味深なこと言わなかった?
「実験、途中で放り出してきたから今から戻る。帰るの遅くなると思うから、先寝てて」
「え、ちょっと!」
玄関に通じる扉がばたんと閉まり、すぐに玄関の扉が開いて閉まる音がした。
テーブルの前に立ちつくすわたしが一人残されたリビングに、龍平さんが階段を下る足音が響く。
まるでわたしから逃げるように行ってしまった龍平さん。何を言っていたの? どういうこと?
というか実験残して帰ってきたのか。わざわざわたしとご飯を食べるためだけにうちに帰ってきたの? ここ学校から遠いのに。バイク使っても結構かかるのに。
それは少し嬉しいけど、喜んでばかりはいられなくて。浮かれそうになる心を必死で抑える。
龍平さんはわたしに嫌われると困るのかな。怖かったってそういうこと? 家がなくなるから? でもそれはもう何度もわたし、追い出さないからって言ってあるよね?
今なら本当に、詩織さんが言っていたことがよくわかる。龍平さんの考えていることがまるでわからない。龍平さんの中では龍平さんの考えはきちんと筋が通って完結しているのかもしれないけれど、こっちにはまるでわからない。
途切れ途切れにしか教えてくれないから、わからないよ、龍平さん。
龍平さんの意味深な問いかけに心が揺れる。でも、駄目だ。もう決めたんだ。
所詮他人の考えなんてわからないよ。わかるのは自分のことだけ。
このまま龍平さんを好きでいたら、いつかきっと、わたしはものすごく傷つくってこと。
ただそれだけしか、今のわたしにはわからないんだ。
泣きそうになる口元を引きしめてわたしは自分の皿の残りを食べた。
なんだかよく見えないし、もう味もよくわからなかった。
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