密約ガーディアン
人は、どうしようもないところまで追いつめられると急にそれまでのすべてを悟るらしい。
わたしは今まさにそんな状態だった。
わたしの無断外泊の後、龍平さんはこまめにわたしにメールを送ってくるようになった。
文面はこれまで通り絵文字も顔文字もないシンプルなもので、要件だけの簡潔なもの。なのに大した用のものでなくても、返事が遅くなると催促までしてくる。今日の晩ご飯は何か、とか、今日は何時に帰る、とか、自分の予定を報告してくるときもあるし、わたしの予定を聞いてくるときもある。
もう絶対に、わたしに無断外泊なんかさせないという固い意思が、ひしひしと伝わってくる。自立していない子どもの親かと言いたくなる。過保護すぎる。
あの「面倒くさい」の権化のような龍平さんが、日に何度もメールを送りつけてくるなんて、この前の件がよっぽど堪えたのだろう。龍平さん自身の帰りが遅くなるときも、必ずメールしてくるし、あれ以来龍平さんは、どんなに遅くなっても必ずうちに帰ってくる。
―――でも、そんなメールにいちいち返事をしているわたしもわたしだ。
あんなに心配かけたんだからという罪悪感もあるけど、……単純に、メールの受信ボックスに龍平さんの名前が並んでいて嬉しいという思いもある。
もう、自分でもわかっている。
どうして龍平さんのこととなると急に心が狭くなるのか。知らない女の人といるところを見ると不安になったり、優しくされると逆に怖くなったり、心配されると嬉しくなるのがどうしてか、そのくらい、わたしだってわかっている。
一度、認めてしまえば楽になった。
多分わたしは、もうどうしようもないところまできている。もうこの気持ちを、嘘やなかったことにはできない。
だから不安で、苦しかったんだ。
ずっとずっと、少しずつ惹かれている自分が、嫌だった。
だから誤魔化すためにそっけない態度をとったり、逃げたりしていた。
でもそれでも駄目なんだ。
認めたら、楽になった。
そして、覚悟ができた。
「……ひよりちゃん?」
自分の世界に浸っていたわたしは、名前を呼ばれてびくんと跳ねた。
人影のまばらな学食の窓際の席で、いつか宗祐先輩に奢ってもらったものと同じコーヒーを飲みながら考え事をしていたら、隣に人が立ったことに全然気づかなかった。
ひよりちゃん、なんて呼び方珍しいなと思ったのは、前に宗祐先輩に呼ばれたときだっけ。先輩より随分と自信なさげな声で、しかも女の人の声に、わたしはそっと振り返った。
わたしの顔をしげしげと眺めていたのは、どこかで見たことのある女の人。名前は知らない。でも、明らかに年上で、だとしたら絶対……龍平さん関係だ。
「ひよりちゃん?」
確認するように、もう一度わたしの名前を呼んだ。
「そう、ですけど」
貴女は? そういうわたしの意図をくみ取って、女の人はほっと表情を緩めて言った。
「よかった、龍平と居るところを遠くから見たことしかなかったから、間違ってたらどうしようかと思った。……わたしは園田詩織。龍平と宗祐と研究室が一緒なの」
詩織さんはわたしの正面の椅子を引きながら言った。「ここ座ってもいい?」と聞かれて、今更頷く以外の選択肢なんてわたしにはなかった。
正面から詩織さんの顔をしばらく眺めて、そして気づいた。彼女が以前、学食で龍平さんに近付いていた女の人だ。
綺麗で、上品そうで、大人で。向かい合っているのが居たたまれないくらいわたしとは雰囲気が間逆な、女の人。女の子じゃなくて、女性って感じ。
研究室が同じだと言ったけれど、それだけかな、と邪推してしまう自分が、少し情けない。
「結城ひよりです。あの、詩織さんが龍平さんと一緒にいるところ、見たことあります」
「あ、ホント? よかった、じゃあわたしが怪しい女じゃないってわかってもらえるかな?」
ぱっと輝かせた表情も、可愛いのに美しくて。そのくだけた話し方に、わたしの緊張……というか、警戒心もすぐに解け始めた。
「怪しいなんて、思ってないですよ。驚きましたけど。学科の子じゃなかったし、大人びて見えたから、龍平さんの知り合いの人かなーって、思いました」
「吃驚したでしょ? ごめんね? ……でも、龍平や宗祐の話聞いて、一度ひよりちゃんと直接話してみたいなぁって思ってたんだ」
「え、龍平さんと宗祐先輩、わたしのこと何か言ってましたか!?」
わたしが二人の話のタネになっているのは想像に難くないが、下手なことを言われていたら困る。……この人に、言われていたら多分、ものすごく困る。
詩織さんは慌てたわたしをからからと笑った。
「言ってるよー。宗祐は龍平をひよりちゃんのことですぐからかうし、龍平は龍平でむきになるし。龍平、最近やたら携帯ばっかり見てると思ったらメールボックスの中ほとんどひよりちゃんなんだもん! あれは笑ったわ」
龍平さんと宗祐先輩のやりとりを思い出してか、はたまた龍平さんの携帯の送受信ボックスにならぶわたしの名前を思い出してか、詩織さんはにやにやと笑みを浮かべたまま。
その笑みに、どこか宗祐先輩にも通じる含みを感じる。龍平さんの周りって、こんな感じの人ばっかりなのだろうか。
「詩織さんは、龍平さんがうちに住んでること知ってるんですよね」
「うん、知ってるわ。ていうか研究室の友達はみんな知ってるわよ」
「え、何で」
「これまでほとんど研究室で寝泊まりしてた龍平が、帰る家を見つけたんだもん。みんな気づくし、もう興味深々よ」
茶目っけたっぷりに微笑むその顔が嫌味たらしくないところまで宗祐先輩と一緒だ、なんてことを思って詩織さんの顔を見ていたけれど、え、みんな興味深々?
「わたしと別れたあとは宗祐の家と研究室しか行くとこがなかったからねー。宗祐のとこだって、いつも行ってたら迷惑だし。その辺謙虚なんだから、あいつ」
あ、やっぱり龍平さんと付き合ってたのか。
初めてこの学食で遠目に見たときから何となく感じていたその疑問は、詩織さんの何気ない一言で早々に解決した。
龍平さんの好みのタイプって、多分こんな風にお姉さんみたいな人で、はきはきして面倒見のいい人なんだろう。綺麗で、華やかな。あの無愛想な長身に張り合えるような、明るい雰囲気の人。
ホント、わたしとは正反対だという考えが、僻みだということはもうわかってる。
「で、そんな龍平をお世話してくれる超絶親切な子はどんな子なのかなって」
にっこり笑って「モトカノ兼友達としては、心配なのよねー」と続けられて、言葉に詰まった。
「わたし、親切とかそんなんじゃないですよ。たまたま雨の日にタオル貸して、そのまま居ついちゃったっていうか……」
「そう、それよ!」
びしっと音を立てそうなほど綺麗な指が突きつけられて、思わずうっと身体をそらしてしまった。
「話を聞く限り、ひよりちゃんはお人好しすぎるのよ! 女の子の一人暮らしでしょ! 雨だろうが嵐だろうが、可哀そうだからって知らない男を家に上げちゃ駄目よ! しかも居ついたって、嫌なら全力で追い出していいのよ! 龍平の心配をしてるなら、そんなことひよりちゃんが考えなくていいわ。実家と話をつけるなり、お金貯めて一人暮らしするなりなんなりすればいいのよ! ……あいつそういうとこは考えが甘くて」
怒涛の勢いで話して、詩織さんははぁっと大きく息を吐いた。
付き合っていただけあって、詩織さんは龍平さんのことをよく見てる。別れたとはいっても今は友達みたいだし、仲はいいのだろう。心配、なんだろうな。こんなに龍平さんのことを心配してくれる人と、龍平さんはどうして別れちゃったんだろう。すごく興味がわくけれど、それを聞く勇気はないな。
わたしからそっと視線を逸らせた詩織さんは、急に自信をなくしたように長い髪をかき上げながら言った。
「龍平だって一応悪いとは思ってるみたいだけど、自分から出ていく気はさらさらないみたいだし。年下の女の子だっていうから、きっとその子も遠慮してるだろうしと思って。……だから、何かあったら言って?」
「え?」
いつの間にか真剣な光を称えた瞳に見つめられていて、わたしは虚をつかれて固まった。心配って、わたしの話?
「え、って。わたしが心配してるのはひよりちゃんのことよ。龍平、変わってるから付き合うの大変でしょ?あんまりいろいろ言わないから、こっちが考えすぎて疲れちゃったりしない?」
「あー……」
わからないではない、龍平さんのそういうところ。言葉が少ないから、不安になるというか、何を考えているかわからなくなる。正直今も、全然わからない。
というか、付き合うって、人と関わるって意味の付き合うかな?詩織さんも宗祐先輩と同じ勘違いをしてるのかな……。それは訂正したいけど、もしわたしが言葉の意味を取り違えてるだけなら恥ずかしいしな……。
「わたしもそれが嫌になって別れちゃったようなものだから、ひよりちゃんも無理しないでね。……でもあいつ、基本的にはいい奴よ。優しいし」
そう、龍平さんは優しい。ただの家主であるわたしを過保護に心配するほど優しい。きっと詩織さんと付き合ってたときは詩織さんに対しても過保護すぎるくらい過保護だったに違いない。でも、詩織さんはしっかりしてるからそういう子どもみたいな心配はいらないのかな?
ふと、そうやって、心の中で自分と詩織さんを比べていることにわたしは愕然とした。
わたしと詩織さんじゃ立場が全然違う。なのに同じようなことで比べて、並べて、……わたしは、何をやっているんだろう。
もう同じスタート地点にすら、立てないのに。
「……ごめんね、なんかわたしばっかりしゃべっちゃって。宗祐はこの状況をものすごく楽しんでるだけみたいだけど、わたしは本当にひよりちゃんの力になりたいと思ってるの。だから遠慮しないでなんでも相談して? 龍平つながりとはいえ、折角縁があったんだもの、わたしもひよりちゃんと仲良くなりたいの」
ね? と微笑みかけてくれる詩織さんに、わたしはぎこちない笑みを返すことしかできなくて。
こうして知り合いの幅が広がることに、いまだに戸惑いを覚える。表面的には克服されたあの孤独感が、こうして絆が増える度にちくちくとわたしをつつくのだ。
結んだつながりもいつかはほどけてしまう。驚くほどあっさりと。
生まれた頃から持っていたはずのつながりさえも今はないわたしは、そのことにひどく敏感になっている。
それがあの事件の後遺症であることは言うまでもなく、だから知り合いが増えることも、誰かと深くまで知りあうことも、まだ、少し、いや、結構、……怖い。
そろそろ研究室に戻るという詩織さんとメールアドレスを交換して別れた。コーヒーも飲み終わったことだし、そろそろ家に帰ろうかと思う。
詩織さんの心配はとてもありがたいもので、あんなふうに人を心配して上げられる人をすごいと思う。尊敬する。憧れる。
でもわたしにはきっとできない。少なくとも、今のわたしのままではできない。
他人に、あんなふうに親身になって、寄り添って生きていくことはできない。軽々しく心に触れるなんてできない。
だから、龍平さんをもっと深く知りたいと思ってしまった自分が怖くて、嫌だった。
もっと近づきたいという気持ちに、理性が必死にストップをかけていた。
どんなに近付いたとしても、いつかはほどけ、離れていくから。
取り残された後が、どんなに空虚で哀しいものか、その恐怖をわたしは知っている。
惹かれていることを自覚したからこそ、もうこれ以上は駄目だって強く思える。ただ一人になるのが怖いから、龍平さんに傍に居てほしかったんじゃないんだ。
わたし、龍平さんが好きなんだ。
でも、このままじゃわたしは、龍平さんが居なくなったあと本当に、抜け殻みたいになっちゃうんじゃないかと思う。
それじゃ困る。わたしはこれからも、龍平さんが居なくなってからも一人で生きていかなくちゃいけないんだから。
だから、ここまでだ。
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