臆病エスケープ


「……ひより」
「ふ?」
「宗祐先輩から、ひよりちゃんと一緒に居る? って聞かれたんだけど。龍平さん、探してるみたいよ? 言ってないの?」

 ああ、と思った。

「……うん。携帯、充電切れちゃって」

 自分でこっそり電源を切っておいた携帯電話を利乃の前で振ってみせた。

「早く言ってよ、充電器は?」
「持ってないよ、そんなの」

 宗祐先輩に返信をする利乃に苦笑してみせた。

「ひより、電話使う? 龍平さんにかける?」
「いいよ、番号覚えてないし。それに、たった一晩じゃない。心配しすぎだよ」

 本当に、何をそんなに心配して探してくれていたのだろう。
 もうわたしも龍平さんも、子供じゃないのに。

「明日謝っとくよ。ありがとう、利乃」


 *


 友達の家にお泊まりというのはやはり楽しいもので、宗祐先輩からのメールが一段落した後は遅くまでいろいろな話をした。
 そして、翌朝。
 幸い午前に授業がなかったため、一度家に帰った。鞄の中が昨日のままでは今日の授業に差し支える。

 龍平さんは、もう研究室に行っているはずだ。
 連絡をしなくていいと判断したのは自分自身なのに、本当はそのことがずっと胸につっかえていた。
 連絡もせず、夜になっても家に帰らないわたしを、龍平さんは探していたんだ。
 宗祐先輩からのメールでそのことを知って、すごく胸が苦しくなった。
 苦しくて、ごめんなさいと思ったけれど、それでも携帯電話の電源を入れることはしなかった。
 つまらない意地だということはわかってる。

 日が昇りつつある空の下、恐る恐る自分の部屋の鍵を開けた。

「………」

 たたきにあの履きこまれた大きな靴がないことに安堵した。当然だ。普段の龍平さんが学校に行く時間より遅くに、わざわざ帰って来たんだから。確認も、取ったし。
 いないとわかるとわたしは一気に気が楽になって、ずかずかと部屋に上がった。自分の家なのだから、これも当然なのだけれど。
 リビングもキッチンも昨日の朝出た時のままのようだ。夜ご飯はどうしたんだろう。寝るときに使った掛け布団を、龍平さんは自分で畳んで片付けたのだろうか。
 鞄をソファーに置いて、改めて部屋を見回した。一晩空けただけなのに、やたらと生活感のない部屋になったような気がして、つっと背筋が冷たくなった。

 その時、外の階段を乱暴に登る足音が聞こえた。

「!」

 そんなわけない。龍平さんなわけがない。そう思っているのに、その足音に耳を澄ませてしまう。
 足音はバタバタと走り、確かにわたしの部屋の前で止まってしまった。
 どうして? どうして? 恐れてさえいた、予期せぬ状況に気が動転した。どこかに隠れてしまいたいのに身体が動かない。
 ガチャリとドアノブが回った。扉からゆっくりと顔を覗かせた龍平さんは―――怖いくらいに、表情がなかった。

「………おかえり」
「……………た、ただいま…」

 今帰ってきたのは龍平さんで、家で迎えたのはわたしなのに、口にする挨拶はちぐはぐだった。上ずった自分の声に、明らかに冷静さを欠いていることがわかる。
 バタンと扉を閉め、ご丁寧に鍵まで掛けて、龍平さんが部屋に上がってきた。

「なんで………、研究室、居るんじゃ」
「お前が帰るって、宗祐が教えてくれた」

 ……宗祐先輩の裏切り者! 研究室に居るかどうかメールで聞いたとき、わたしがメールしたこと、龍平さんには言わないでくれるって言ったのに!
 心の悲鳴が口から飛び出すことはなかったが、代わりに心臓は飛び出してしまいそうなほど激しく跳ねていた。
 絶対怒ってる。確かに悪いと思うけど、外泊するのに連絡もしないで、あまつさえ龍平さんからのメールも電話も全部無視したわたしが悪いけど、でも、


 ……龍平さんだって、いつも何も言わずにわたしを置き去りにするじゃないか。


 リビングに二人立ったまま対峙して、悲しくなった。こんなことをするために、わたしは昨日この家を空けたわけじゃない。
 一日あければ、落ち着くと思ったのに。龍平さんを見ただけで早鐘のように鳴りだすこの心臓が、知らない女の人といるところを見ただけで狂い出すこの心臓が、いつものリズムを取り戻してくれると思ったのに。
 このままじゃ駄目なんだ。このままじゃ、今の「家主と同居人」という関係を続けていけないよ……。

「ひより」

 名前を呼ばれるだけで、小さく身体が震える。怒っている龍平さんを見て、もう最悪のケースしか想像できない。もういい、俺出ていくから。そう言われそうで、怖くて。

「………他に言うこと、あるんじゃないか」

 ―――言いたいことは、たくさんあるよ。何で帰ってきたの、とか、昨日の女の人誰、とか、昨日の夜は何してたの、とか、あとはあとは―――出て行かないで、とか。でもそんなことわたしなんかが、龍平さんに言っていいことじゃないよね。ああ、もしかして「もう出て行って」って言ってほしい? わたしなんかの相手はしていられない? お世話になった手前自分からは言いにくいから、わたしに言ってほしいの? そんなの酷い。ずるい。……悔しい。
 俯いて黙り込んでしまったわたしに、龍平さんは浅く溜め息をついた。それすらわたしを追い詰める。龍平さんは、きっとそんなこと知らない。

「………せめて、連絡くらいしてくれ」

 痺れを切らし、深い溜め息とともに龍平さんが言った。
なんだ、そういうことか。……そうだよね、今の話の流れからしてそうだよね、昨日のことか。なんだ。―――でもね、それだって。

「………龍平さんだって、しないくせに」

 わたしが反論したことが、意外だったらしい。目を見開いてわたしを見つめる龍平さんから、逆にわたしは目を反らした。

「だってここは、お前の家で……、お前がいるのは当たり前だろ?」

ちょっと困惑した声が言い訳がましく聞こえた。そうかもしれないけどさ、でもさ、龍平さんだってさ。

「でも龍平さんだって鍵持ってるじゃない」

  さっきから、でも、とかだって、とかばっかり言ってる。でも、敢えてまだ言うけどね? 龍平さんだってこの家の人で、帰らない日はわたしに連絡してもいいんじゃないの? わたしだけがこうして龍平さんに叱られなきゃいけないの? わたしはそんなこと龍平さんに言えるわけないのに?

「そうだけど、でもここは……お前の家だろ?」

 そう、ここはわたしの家だ。わたしの、わたしだけの家。わたしが、誰かを待つ家で、誰かがわたしを待ってくれる家ではない。そんなこと、わたし自身が一番よくわかってるよ。

「―――だから」

 たっぷり間を空けてから、龍平さんは躊躇いがちな小さな声で言った。

「ここはお前の家なんだから、お前が出ていく必要はない。何かあったら、俺が出ていくから。来るなって言われたら来ないから」

 強気で自分に有利な言い訳ばかりを考えていた気持ちが急にしぼんでいった。本当に言われてしまった。「俺が出て行く」とか、嘘でも冗談でも聞きたくなかった。
ああ、もしかしたら龍平さんは気づいているのかもしれない。―――わたしが昨夜、ここから、龍平さんから逃げたということを。
龍平さんの言葉に、ただひたすら首を振った。そんなこと望んでいない。
罪悪感で息が詰まる。龍平さんは何も悪くないのに。全部わたしのせいなのに。
 悪いのは身勝手なわたしなのにね。勝手に執着して、勝手に怖くなって、勝手に逃げた。本当に酷くてずるいのは、きっとわたしだ。
 鼻の奥がつんとしてきた。朝からなんでこんなに泣きたくなっているんだろう。鼻声になるのを必死に隠して、わたしは言った。

「ごめん、なさい………」

 何に対してのごめんなさいか、わたしも正直よくわからなかった。連絡しなかったこともこっそり帰ろうとしたことも、どうしようもない身勝手さで龍平さんを不安にさせたかもしれないってことも、全部全部ひとまとめにして、謝ることができたらいいのに。

「……俺に出て行ってほしい?」

 そんなわけない。わたしはぶんぶんと首を横に振った。

「……ちゃんと口で言って」

 珍しく表面的なことにこだわる龍平さんを不思議に思って上げたわたしの顔は、もう隠しようもなく涙目だったと思う。
見上げた龍平さんの顔もどこか泣きそうで、でも泣くのを我慢して口を結んでいる子どものようで。

「……龍平さんの好きにすればいい」

 可愛げのない言い方はいつもだとしても、今は反省する側のわたしがこの言い草は酷い。酷いのはわかっているのに、これ以上優しい言い方はできない。そんなことしたら、つまらない強がりでも見栄でも張っていなければ……本当に、情けなく泣いてわめいてしまいそうだから。
行かないで、って。ずっとここに居てって。言いそうになるから。

「……じゃあ、俺にいてほしい?」

重ねてそう聞いてきた。
 ……龍平さんは、今わたしがとっても申し訳なく思って、絶対に否定できないとわかって、その上でこんなことを聞くのだ。なんて性格の悪い。やっぱり、なんて……ずるい。
いつだって決定権はわたしではなく龍平さんが持っていて、わたしにはそれを違える力なんてないのに。
でも今は引きとめていいの?まだうちに居たいって言ってくれるの?

「………うん」

 こう言ってしまったわたしはどうすればいいんだろう。いずれ必ず居なくなる人に、こんなにも居てほしいと思うわたしを、龍平さんはどう思うのだろう。
 大体………どうして、こんなことをわたしに言わせるのだろう。きっと最後に、龍平さんがここを出て行きにくくなるだけなのに。

 視線を伏せて床を見つめたままのわたしの視界に龍平さんの足が映った。
 頭をぽんぽん、と叩かれる。それから、幼い子供をあやすように髪をくしゃくしゃと撫でられた。

「今日はすぐ帰る。………待つのって、辛いんだな」

 顔を上げられなかったわたしはそう言った龍平さんの表情を見られなかった。けれど声音にも何か物悲しげな響きがあって、昨日の夜龍平さんが連絡をしてこないわたしをどれだけ心配したか、痛いほど伝わってきた。

「ごめんなさい………」

 わたしはなんて馬鹿だったんだろう。
 そして、………こんなにも馬鹿なわたしを、まだ甘やかそうとする龍平さんは、もっと馬鹿だ。



 TOP 





inserted by FC2 system