逆転ピアニシモ
キッチンに立っていると、玄関で鍵が開く音がした。
「ただいまー」
「おかえり」
言いながらわたしはコンロの火をつけなおした。すでに熱くなっていたお湯に今からパスタを入れれば、帰ってきたばかりの龍平さんに温かいカルボナーラを提供できる。
ひと月以上経った今、わたしも龍平さんの好みがわかるようになってきた。事あるごとに「麺」と言う龍平さんは、やっぱり子供っぽいと思う。
廊下とリビングダイニングを繋ぐ扉を開けた龍平さんは、定位置のソファーに直行した。
「あとちょっと待ってね。今パスタ茹で始めたか、ら……!?」
ソファーに座ったふてぶてしい龍平さんの顔を見てわたしは驚いた。右半分が赤く腫れている。
「ちょ、どうしたの!」
「殴られた」
「誰に!」
「親父。今行ってきたんだけど…」
火もそのままにわたしはカウンターの向こうに座る龍平さんに駆け寄った。腹立たしそうに、恨めしそうにしている龍平さんに、わたしは遠慮がちに手を伸ばした。
「…」
「……いて」
そっと触れただけなのに、龍平さんはびくんと動いて痛みを訴えてきた。
「…どうしよ、冷やせばいいのかな…。薬とか、うちにはないから…買ってこようか?痛いよね?」
「いらないよ。それよりお腹すいた」
痛みより空腹を訴えるだけの元気があることにとりあえず安心した。わたしはキッチンに引き返すと、ビニール袋に氷と水を入れてタオルを巻いた。鍋の湯は沸騰しているけど茹で時間はあと少し。わたしは即席氷嚢を持って龍平さんのところに戻った。
「ほら、冷やしたほうがいいよ」
差し出しても、龍平さんは受け取ってくれない。拗ねたように顔を背けて、もう本当に、子供みたいだ。
仕方ないからわたしが氷嚢を龍平さんの頬に当ててあげる。顔をしかめた龍平さんは、でも嫌がらなかった。
「喧嘩したの、お父さんと?」
「喧嘩っていうか、向こうが勝手にキレただけで…」
罰が悪そうに目を反らし続けるところを見ると、実は龍平さんもお父さんに手を出してきたんじゃないだろうか。喧嘩両成敗、みたいな。
「…ほら、龍平さん自分で持って。わたしご飯作るから。パスタ茹で上がるし」
「…」
不満そうに、龍平さんはやっと氷嚢を受け取ってくれた。
わたしは素早く茹で上がったパスタを調理し、皿に盛った。今日の献立、あんまり凝ったのにしてなくてよかった。
「出来たよ、龍平さん」
「ん、ありがとう」
放り出した氷嚢をローテーブルにそのままに、龍平さんはいつもよりがっついて夕飯をかきこんでいた。怒るとお腹が空くらしい。
「食べたら先にお風呂に入って」
「いいよ、ひよりが先で」
「いいから!」
食後、龍平さんを無理矢理納得させ、わたしは洗い物という口実でリビングに残った。
浴室のドアが閉まる音がして、それから水音が聞こえてきたのを確認して、わたしは上着のポケットに財布と携帯電話と鍵だけ入れて家を出た。
「おい、ひより!」
浴室のドア越しに龍平さんの声が聞こえたけど、止まらなかった。気にしなくていいよ、これはわたしのお節介だから。
だって、腫れた右の頬、とても痛そうだったんだもん。
*
家に帰ると、湯上がりの龍平さんが廊下に仁王立ちしてわたしを待っていた。
「ただいま…」
「こんな時間に一人で外を出歩くな!」
怒られた。龍平さんが帰ってきた時点で外は真っ暗。アパートの下の道も、この時間だと殆ど人通りがなかった。
「そうは言っても、一人で暮らしてたらそういうこと気にしてられないし」
「今は一人じゃないだろ!…ったく」
まだ腫れがよくわかる頬を脹らませ、龍平さんはわたしへの不満を顕にしていた。別にいいけど。わたしだって、自分のしたいようにしかしないんだから。
ていうか龍平さん、わたしの心配をしてくれたのか。買いに行かせて申し訳ない、とか、そういうことかと思ったのに。
…そうか、今わたし、一人暮らしじゃないのか。
「……まぁ、いいでしょ。リビングに入って。手当て、してあげるから」
手に持っていた袋を上げて見せると、龍平さんは眉を吊り上げた。なんでそんなに怒ってるんだろう。
なかなか動かない龍平さんの背中を押して、リビングに入った。
仕方ないからソファーに向かい合わせで座り、何も言わない龍平さんの腫れた頬に湿布を貼った。
不機嫌そうだった顔は痛さと湿布の冷たさでさらに歪み、でもその痛みを代わってあげることはできなくて。
「痛い?龍平さん」
「痛いけど、平気…なんでお前が泣きそうなの」
わたしの顔をようやく正面見て、龍平さんは左の頬と目で笑った。
「だって、ホントに痛そう…」
何もしてあげられることはないんだけど、何かせずにはいられなくて。わたし、怪我してる人とか、泣いてる人とかには昔から弱いんだ。
貼った湿布の上から、もう一度龍平さんの頬に触れる。眉間の皺は解かれていて、もう龍平さんは怒ってなさそう。剥がれかけた箇所を柔らかく押して、ただ触れたかっただけだってことを悟らせないようにした。
腫れた頬のふくらみをなぞるように撫でていると、指が龍平さんの手に捕まった。
「?」
わたしの指ごと自分の頬に押しつける龍平さんは無表情に目を閉じて、じんわりと痛みに耐えていた。
あの睨み付けるような目と投げ遣りな口調さえ隠せば、龍平さんはなかなかにいい男だ。
「……うちの親、再婚同士でさ」
「…」
「俺は親父の連れ子だったんだけど、今の母親、好きじゃなくて…、親父とも意見合わなくて」
「きょうだいは?」
「血の繋がらない姉貴がいる。もう働いてて家にいないけど」
龍平さんの頬の上で重ねた手のひらが熱い。伏せ目がちに開いた瞳は潤んでいて、本当にわたしまで泣きそうになった。
「…また泣きそうだぞ、ひより」
「だって……、龍平さんも、泣きそうだよ」
「そうか?」
「うん」
わたしが自信をもって断言したのが可笑しかったのか、龍平さんはまた薄く笑った。
「ありがとう、ひより…ちょっと落ち着いた。風呂、入ってこいよ」
「うん…」
手のひらが離れる。直前までの温もりが少し恋しくて、わたしは小さい子供を慰めるように、龍平さんの頭を優しく撫でた。
「疲れてるなら、寝てていいからね」
言いおいてわたしは着替えをとりに自分の部屋に入った。
なんで、龍平さんの頭を撫でてあげたいと思ったんだろう。龍平さんのほうが年上だし、別に可愛いわけではないし、家族もいて、むしろわたしが慰められたいくらいなのに。
…そういえば、人は寂しかったり不安だったりすると人に触れたくなるらしい。
本当に寂しかったり不安だったりするのは、実は龍平さんじゃなくてわたしなのかもしれない。
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