接触ナイトメア
空港に降り立った途端、荷物も受け取らず外に出るように言われる。
「結城さん、おじいさんとおばあさんが迎えに来てるから行きなさい」
「……」
無機質な空港に立ちすくみ、わたしは混乱する。どうして?どうして?おじいちゃんとおばあちゃん?お父さんとお母さんじゃなくて?
「…ひよりちゃん!」
高い屋根におばあちゃんの声が響く。おじいちゃんと二人わたしに駆け寄ってくる。二人ともすごく目が赤い…どうして?もうわたしの頭の中は、わからないことだらけだ。
「お父さんとお母さんと祥くんが…」
「…―――」
…何を言ってるの?もう一度言って?…やっぱり言わなくていいや、理解できないよ。雨音が煩くて聞こえないよ…。
滅多に乗らないタクシーで雨の中知らない道を走っている。隣にはおばあちゃん、前にはおじいちゃん。うちの車なら、隣には弟が座るし前にはお母さんが座る。運転はもちろんお父さんだ。うちの車がなんとなく恋しいのに、夢見心地でしか想像ができない。
連れて来られたのは葬儀場。ここに何の用があるの?目の前に並ぶ棺は何?どうして三つもあるの?中には何が、誰が入ってるの?
部屋の奥から聞こえる笑い声。何度か会ったことのある叔父さんが笑ってる。ほら、笑ってるじゃない。楽しそうじゃない。ねぇ、お父さんは?お母さんはどこ?
あぁ、窓の外は、なんて酷い天気なんだろう。わたし、雨の日って嫌いなのに。
おばあちゃんの話す言葉が、そのままイメージとしてわたしの頭の中に流れこんでくる。うちの白い乗用車。運転席のお父さん、助手席のお母さん、その後ろに座る祥。大きな交差点。青信号。笑い声。発車。左から飛び込む大型トレーラー。衝突、炎上。潰れた車、…血まみれ。
『…ひ、より』
「!!!」
跳ね起きると真っ暗だった。浅い呼吸を繰り返して、ようやく今が夜だということに気付いた。雨音がやけに煩くて…、だから、あんな夢を見たんだ。
瞼の裏には、まだ片目の潰れたお母さんの顔のイメージが貼りついている。見てもいないのに、その顔は他のどんな表情より、葬儀のどの場面より鮮明に、わたしの頭の中に浮かび上がる。
(……最悪)
わたしは頭を抱えた。最近は、あんな夢見なくなってたのに。夜中に起きることもなかったのに。
きっと今夜は雨が降っているから悪いんだ。修学旅行から帰ったあの日も、雨が降っていたから。
預けていた荷物は、先生が持ってきてくれたっけ。みんなに喜んでもらおうと選んだお土産は、確か全部捨てちゃったんだ。お父さんやお母さんや祥の整理したものと一緒に。
しばらくは動くのも億劫でベッドに黙って横になっていたけれど、このままではとてもじゃないけど眠れそうになかった。
苦し紛れに水でも飲もうと思って、わたしはそっとベッドをおりた。
リビングも当然明かりなんてついていなくて、静かで。感覚だけで暗闇の中を歩き、使い慣れたキッチンでコップに注いだ水を一気に飲み干した。
渇いた音がした。
「……ひより?」
「!」
声がして、驚いた。
…そうか、ここには龍平さんがいるんだっけ。
ただそれだけの、もう慣れきっていたはずの現実が、とても新鮮で、有難く感じられた。
きっと寝てたに違いない。もの音で起こしてしまったのかもしれない。
「…ごめん、起こした?いいよ、寝てて」
「いや…、どうした?」
まだ覚醒しきってない龍平さんを気遣って小声で囁き返すと、やっぱり擦れた小さな声が返ってきた。その穏やかな声がやけに優しげに聞こえて、わたしはふいに泣きそうになった。
コップを置き、そっと龍平さんが寝ているソファーに近づくと、龍平さんは顔だけを向けてわたしを見ていた。普段から眠そうなぼんやりした表情に、拍車がかかったような顔をしてる。
「どうした…?」
横に立つと、龍平さんは掛け布団から手を出してわたしの手をとった。大きくて、ごつごつした男の人の手。
ただ触れているだけなのにものすごく温かくて、もう、本当に…、泣きそうだ。
「………夢、見て」
「…夢?」
「それが、少し怖かったから」
ぎゅっと握られると、余計に哀しくなる。離せなくなるよ、龍平さん。
わたしは呼吸を整えて涙を押し留めるために目を閉じた。沈黙も、龍平さんとなら怖くないのはどうしてなのかな。
ずっとこのままでいてくれたらいいのに。龍平さんは眠っちゃっていいから、わたしはここに立ったままでいいから、朝まで、あるいは雨が止むまで手を繋いでいてくれないかな。
「…一緒に寝る?」
「ここで?」
遠慮がちになされた提案にわたしは即座に切り返した。このソファーに二人は寝れないよ。
「いや、ひよりのベッドで。…平気なら、いいけど」
龍平さんの声は暗闇に掻き消えてしまいそうなほど小さく擦れているのに、わたしの耳にはしっかりと届いた。
前に龍平さんがそう提案したときはもっと冗談めかしていたし、わたしも強気でいたから断った。だってそれって無防備すぎるじゃない。龍平さんはただの同居人なんだから。
でも今は…弱ってて泣きそうな今は、その提案がとても魅力的で甘やかに感じられた。
「……うん」
「うん?」
「だから、一緒にいて」
寝返りをうつように身体ごとわたしのほうを向いた龍平さんの顔は、暗くてよく見えなかった。少なくとも、どんな表情をしてるかはわからない。もぞもぞと身動ぎをして、それから龍平さんはのろのろと立ち上がった。
「ん」
返事とも呻き声とも寝言の延長とも判別のつかない声を上げて、龍平さんはわたしの手を引いてわたしの部屋のドアを開けた。
龍平さんがこの部屋に入るのは初めてじゃないけど、なんだかドキドキする。
龍平さんより先にベッドに上がり、端に寄って龍平さんのスペースをあけた。「お邪魔します」と言って隣にもぐりこんだ龍平さんと並ぶと、いつもは広々としたベッドも窮屈に感じた。
わたしには、多分このくらいで丁度いいんだ。
「狭い?」
「へーき。ソファーより広い」
「…だから布団敷いたらって言ってるのに…」
近くにあるだけで、その熱を感じる。触れそうで触れない肩。
触れてない、と思った一瞬のうちに、隙間が埋まった。
「龍平、さん」
わたしの声なんてもう聞こえていないのかもしれない。こんなに近くで囁いてるのに。目の前には瞼を閉じた龍平さんの顔が、背中には龍平さんの腕が。
「……あったけぇ」
温かいけど。いいのか龍平さん。こういうこと、彼女じゃない女の子にしちゃだめなんじゃないの?
わたしの顔は多分真っ赤で、熱くなっている。心臓もせわしなく動いているのに、どうしてかな、苦しくはないよ。
少し落ち着けば、わたしもこの温もりをただ温かいと感じられるようになった。少し怖かったけど、龍平さんのシャツをきゅっと掴んで目を閉じた。回された腕がわたしを締め付ける。龍平さんが、まだ寝ていないことはわかってたけど。
頬を寄せた龍平さんの胸から、鼓動を感じる。わたしと違っていたって普通の早さで、ずっと同じリズムを刻んでいる。生きている人の音。
その音が耳に心地よくて、安らかで、わたしはすっかり眠気を取り戻していた。
「…ひより」
わたしを呼ぶ声が最後に聞こえた。優しくて、温かい声。幻じゃない、現実の声。
どうかどうか、いつまでもわたしの名前を呼んで。怖い夢を見たら名前を呼んで起こして。不安になったら名前を呼んで抱き締めて。
今だけの我が儘だから、今夜だけ許してね。
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