困惑スパイス
今日の授業が全て終わり、わたしは利乃とも別れて一人大学構内を歩いていた。
今から歩いて家まで帰っても、龍平さんに合わせて晩ご飯を作るには時間がある。…食事の心配ばかりしているなんて、主婦みたいだ。
「ひよりちゃん」
突然わたしの名前を呼んだ男の人の声は龍平さんのものじゃなくて。少し怖くて、恐る恐る振り返った。わたしのことを「ひよりちゃん」なんて呼ぶ知り合い、いたっけ?
立っていたのは爽やかな長身の人―――。確か、龍平さんと一緒にいるのを見たことがある。
「……宗祐、先輩?」
「あ、名前覚えてた?」
わたしに近づいてくる宗祐先輩はやたら気安い笑みを浮かべて、わたしの前に立った。
「この後暇?」
「まぁ…あとは帰るだけですけど」
「じゃあ学食で少し話さない?龍平のこととか、興味あるでしょ」
茶目っ気たっぷりに片目を瞑るわざとらしい仕草は、なぜか宗祐先輩がすると様になっている。
龍平さんのこと。
龍平さんの友人であるらしい宗祐先輩は、確かに龍平さんについていろんなことを知っているだろう。今一緒に暮らしている、わたしなんかより、ずっとたくさん。
龍平さんはあまり自分のことを話さない。わたしも話さないけど。だから、興味があるかと言われたらあるけど、これまで聞いたことはなかった。
宗祐先輩の笑顔に油断する。もう見知らぬ男の人と関わるのは止めようと固く決めていたのに、心惹かれる。
だって、わたしの同居人のことなんだもん。いつまでも何も知らないっていうのも、何だか…。ねぇ?
それがただの好奇心を抑えきれない自分への言い訳とわかっていながら、わたしは宗祐先輩に向かって頷いた。
*
宗祐先輩に奢ってもらったコーヒーを前にわたしは学食の窓際の席に座っていた。
真向かいに座る宗祐先輩はさっきから肘をついた手で携帯電話をいじっていて、手持ちぶさたなわたしは早速コーヒーに口をつけた。
カシャッ。
「?…何しました?」
「写メ撮った。ひよりちゃんの」
「ちょ…!……どうするんですか、写メなんて」
わたしの顔なんて撮ってもどうしようもないだろうに。勝手に撮影された不満より、呆れてしまった。龍平さんといい宗祐先輩といい、この人たちはどうしてくだらないことをしているときに限って生き生きした眼をしているんだろう。
宗祐先輩が、自分の携帯電話の画面を見せてくれた。
「こんな感じ」
宗祐先輩が見せてくれたのは送信済みボックスのメール。送り先は龍平さんで、わたしのさっきの写メが添付されている。コーヒーカップに口をつけ、外を眺めるわたしの間抜け面。
『デート中』
語尾にハートマークまでついたそのメールに、わたしはまたしても呆れた。
「龍平さんに送ってどうするんですか…」
「ん?やきもち妬くかと思って」
嬉々として携帯電話を閉じた宗祐先輩は、わたしを正面から見た。
「自分が家に入り浸ってる彼女が俺と居たら、龍平嫌だろうなぁと思って」
満面の笑みでタチの悪いことを言う宗祐先輩。先輩、間違ってますよ。
「わたし龍平さんの彼女じゃないですよ」
「え?」
どうしてそこで驚く?龍平さんから聞いてないのかな?
「付き合ってないです。ただの家主と同居人」
「…マジで」
わたしが宗祐先輩から龍平さんのこと教えてもらおうと思ったのに、わたしが教える側になってるじゃないか。
でも、その誤解はきちんと解いておかないと。
その時、宗祐先輩の携帯電話が鳴った。
「はーい。あ、龍平?…うん、ひよりちゃんといるよ」
宗祐先輩の電話の相手は龍平さんらしい。ぼそぼそと声が聞こえたが、むこうが何を言っているのか聞き取ることはできない。
「何…?ああ、だって俺の勝手でしょ?俺もひよりちゃんと仲良くなりたい!…えー、来るなよ、お前まだ実験途中じゃないの………」
あなた方はわたしを何だと思ってるんだ。…数ヶ月前まではもっと平和だったのに。院生の男の人の知り合いとか一人もいなかったのに。彼らの電話の話題に挙がるとか、絶対なかったのに。
「えー……、学食。来なくていいって、何なら俺がひよりちゃん送るし」
「え、龍平さん来るの?…ですか」
非難めいた口調とは裏腹ににやにやした笑みを浮かべていた宗祐先輩に、わたしは思わず声を上げてしまった。
宗祐先輩はちらりとわたしのほうを見て、また視線を外した。
「ひよりちゃんもお前なんか来なくていいって。振られたな龍平。じゃそういうことで!」
始終楽しげに、宗祐先輩は龍平さんとの電話を切った。
来なくていいとか、思ってても言ってないのに。この人、わたしと龍平さんを絶対からかってる。わたしはげんなりした。
「宗祐先輩……楽しんでますね?」
「うん、かなり」
見た目通り爽やかな好青年かと思ったら大間違いだ。龍平さんの友達なだけはある。ひねくれてる。
「龍平慌てて電話かけてきたもんな…大事にされてるんだね、ひよりちゃん」
「いや、意味がわかんないです。付き合ってるわけじゃないし…」
「でも家の鍵渡してるでしょ?」
宗祐先輩の目付きが変わった。…ような気がする。真剣というか。
「まぁ…。本当に卒業するまでうちにいるなら、あったほうがお互い便利だと思って」
この春見事進級した龍平さんは大学院の二年生。わたしは大学二年生。来年、龍平さんは卒業する。
「…龍平はさ、実家嫌いじゃん?これまでも友達の家とか彼女の家とか転々としてたんだけど…」
やっぱり。そういうことか。だからわたしは『今度の家主』なのね。
「鍵持ってんのは初めて見た。俺ん家の鍵も持ってないし」
頬杖をついて自分のコーヒーを飲む宗祐先輩は心底不思議そうな眼でわたしを見ていた。
「そうなんですか」
「うん。ひよりちゃん一人暮らしでしょ?危ないとか思わないの?つか何で龍平と同居する気になったの?」
「…」
今更どうしてと聞かれると、わたしにもどうしてかわからない。雨の中うちひしがれてる龍平さんと出会って、タオルを貸して、そのまま居着いた。居るから一緒に住んでるって感じで、あとは…利害の一致、かな?実家に帰りたくない龍平さんと、誰かに傍にいてほしいわたし。それを説明するにはわたしの家族の話をすることになる。…まいっか。もう割り切ったことだし、話しても。
「それは多分…」
宗祐先輩が顔を上げた。
「宗祐!」
悠長に宗祐先輩が手を上げたほうへ、わたしは眼を向けた。
龍平さんだ。本当に来たし…。
龍平さんの声はいつもより二倍増しで不機嫌だ。わたしは何もしてないよね?なのに何でこっちを睨むかな?
その顔で睨まれたら怖いんだってば。やめて…。怒らないで、嫌いにならないで。
「なんでお前らが一緒にいるの」
「別に?たまたま会ったから。ひよりちゃんから見た龍平のこと、聞きたいなぁと思って」
「宗祐先輩、わたしは宗祐先輩から龍平さんのこと聞きたいんですけど…」
「ほら、ね?」
宗祐先輩の言葉に龍平さんの眉がどんどん吊り上がり、眉間にどんどん皺がよる。何がそんなに不満なの龍平さん。宗祐先輩にからかわれてること?
「お前、ひよりに余計なこと言うなよ」
「余計なことって?」
「…いろいろ。嫌になって、追い出されたら困る」
眉間に深く皺を刻んだ龍平さんの顔を、わたしはまじまじと見てしまった。そうか。そういうことか。
―――……そうですよね。龍平さんは追い出されたら困るよね。だからわたしのこと大事にしてくれるの。時々優しくしてくれるの。
大丈夫だよ、もし龍平さんが優しくなくったって、今更追い出したりしないよ。
だってきっと、本当に困るのは……わたしだから。
独りではない生活を思い出してしまった。この幸福感は、なかなか手放せない。
「追い出したりしないよ。鍵は龍平さんが要らなくなったときに返してくれればいいし」
折角フォローしてあげてるのに、こっちを見もしない。こら、本当に追い出すぞ。
宗祐先輩はまたにやにやしていて、龍平さんは宗祐先輩を射殺さんばかりに睨み付けている。二人はお互いわかったような顔をして、やっぱり通じあってるんだな。
「…帰るぞ、ひより」
普段より一層低い声で龍平さんが言った。
「え?実験は?」
「今日はもういい」
テーブルの横に立ったままわたしを待つ龍平さんと宗祐先輩を見比べると、宗祐先輩はやれやれと苦笑した。
「いいよ、今日は…。少しだけだったけど、面白かったし。ひよりちゃん、龍平と帰ってあげなよ。嫌なら俺送るけど?」
「いえ、大丈夫です…。あの、コーヒーありがとうございました。わたしももっと話聞きたいから、また機会があったら誘ってください」
遠慮がちに次を催促して、わたしは席を立った。龍平さんがまた剣呑な顔をしてる。わたしが誰と会って話そうが、わたしの自由じゃないか。相手は確かに、龍平さんの大の友達かもしれないけど。
「いいよ、連絡する…またね、ひよりちゃん」
「はい、ありがとうございました」
含み笑いしている宗祐先輩にお礼を言って、さっさと歩き出した龍平さんに遅れないようについて行く。ぼやぼやしてると、「遅い」からって手を引かれかねない。さすがに学食では、ちょっと、恥ずかしすぎる。
いつも家の近所を散歩してるときや買い物に行くときと同じように、隣に並んで歩いていいものか少し悩んで、一歩後ろを歩くことにした。龍平さんには睨まれたが、特に何も言われなかった。まぁ大学生なら、付き合ってない男女が並んで歩いてることだって普通なのかもしれないけど。意識したわたしがおかしいのかもしれないけど。
でも、今龍平さんの隣を平然と歩ける自信は、正直ない。
わたしと龍平さんは赤の他人で。家族でも恋人でもなくて。それはわかってたけど、でも、そっか。
龍平さんは、追い出されると困るから、わたしに優しいのか。
傷つく理由なんかないのに、優しい龍平さんを思い出せば思い出すほど、わたしは涙が出そうになるほど哀しくなった。
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